音楽家黒ファイ/むじこ




Heart Of Music


(やばい、引きずられる)
 そう思った時には手遅れだった。
 たまたま通りかかった倉庫から聞こえてきたピアノの音に耳を澄ませた。
 それは酷い演奏で、これは「悲愴」と言うより「悲惨」だなと内心毒づいたのが最初だった。
 下手くそという訳ではない。
 この演奏者は情緒が無いと言うか、繊細さが無いというか、この曲を一度でも聞いた事があるのかと言いたくなるくらい色んなセオリーを無視した演奏をしている。
 別に他人が弾くピアノ全てにいちいち評価を下せる程偉い立場ではないのだが、元々していた仕事がらどうしてもそれは耳についた。
 今までずっと、優秀なピアニストがすぐ側にいたという事もある。
 現在無職……どころか囚人として捕らわれ世間様に顔見せ出来ない肩身の狭い身だとしても、元指揮者であるファイには耳に飛び込む音楽全てに一度は耳を傾けてしまう癖があった。
 職業病というよりは興味・趣味に近いものがあったが、どちらにしろ好きと感じるものは多い方がいいじゃない、というのがファイの主張だ。
 取りあえず今回はその好きの中でも好む部類のものではないと判断したのでとっととこの場を退散しようと決めたのだが、扉にくるりと背を向け歩き始めた時、気になる音が耳に飛び込んできた。
 それは色の様な景色の様な、雑音に聞こえる荒っぽい演奏の中に、確かに何かしらの明確な意思の様なものを感じた。
 この手の音に触れる時はいつもロクな目に遭わない。
 慌てて逃げようとしたが体とは裏腹に、感覚の全てがその演奏を追い始めた。
 聞きたくなくて耳を塞いだけれど、その音は防音の施された壁を突き抜けてファイの耳に届いた。
 ピアノとはこれ程まで大きな音だっただろうかと思ったが、本当に音が大きいのかファイの耳がそれを聞こうと無意識に耳を澄ませていた為かはわからない。
 荒々しく感情が剥き出しの演奏に胸が掻き乱された。
 気付けば涙が溢れ始め、ドアにすがりつくようにしゃがみこむ。
 悲しい。
 悲しい。
 切なくて、苦しい。
 音に乗って耳を通って心臓に叩き付けられる怒りと悲しみ。
 一体どんな人がこんな演奏をするんだろうと、止まらない涙を拭う事すら忘れて扉を開いた。
 手に触れたドアの取っ手は気温のせいで凍りつく様に冷たい。
 痛いとすら感じる冷たさすら忘れ、ファイは鍵盤を叩く男を見た。
 グランドピアノが小さく見えてしまう程大きな体は、そのピアノと同じ色の黒いコートを羽織っていた。
 突然の訪問者に手を止め、それを見据える鋭い目。
(炎みたいだ)
 その瞳は紅く、思わず見とれた。
「何してる。ここは許可無く入っていい場所じゃねぇだろ」
 立ち上がった男は思っていたよりも十センチ以上は大きかった。
 見下ろされ、見上げ、その着ている物からこの人物が自分達を監視する側の人間である事に気付く。
 それでも、演奏が中断されたにもかかわらず未だ頭の中で鳴り響く悲哀に満ちた音色がこの人物に対する警戒心を失わさせていた。
 男も突然部屋に入ってきた囚人が何も言わないままぼろぼろ泣いているのに戸惑っていた。
 近付くべきか少し迷うような素振りを見せ、結局その場で口を開く。
「……おまえ、自分の房はどこにある」
「あっち」
 ファイが適当な場所を指差し、曖昧な返答に男は困惑の表情を示した。
「……早く戻れ。直に消灯時間だ」
「ね、何か辛い事があった?」
「あ?」
「悲しい事があった? オレ、何も出来ないけど話を聞くくらいは、出来るよ」
 そう言いながら、涙が止まらないのはファイの方だった。
 しゃくり上げながら、それでも目の前の看守を慰めようと手を伸ばす。
 細い指が頬に触れた瞬間その手は乱暴にふり払われたが、それには構わなかった。
 理由もわからないままただ泣き続ける囚人を目の前にして、看守である男はこの相手をどう扱っていいかわからず眉を顰める。
「何故俺が辛い事があったと」
「音を聞けばわかるよ」
 直ぐに返事を返す。
 ファイは男の上着の裾を掴み、ぽとぽとと涙をこぼす。
「こんな、胸が潰れる様なソナタ」
 顔を両手で覆い、また泣き声は大きくなった。
「……おい、泣くなよ」
「泣いてるのは、君でしょう」
「泣いてねぇだろ俺は」
「泣いてたよ」
 話にならない、と男は肩を竦め、泣いたままのファイの襟首を掴み、強引に移動を開始した。
 ぐずぐずと泣き続けるファイは足をもつれさせながら、何とか男の歩みについていく。
「D-8 ……ファイ・フローライト」
 D棟、丁度これから男が担当する区画だった。
 腕に付けられたタグを読み上げ、男がその棟へ足を向けた。
 大昔に異国の敵兵を捕らえ閉じ込めておく為に作られた、歴史的建造物を改築した物だと説明を受けていた。
 おんぼろの建物はどっしりした石造りで、敷地の真ん中に大きな二階建て程度の低い建物がまずあり、そこが正面入り口に繋がるロビーの役割を果たしている。
 外には寒さのせいで機能を全く果たしていない広い中庭があり、建物の中には食堂や看守達の居住するスペースがある。
 真ん中の建物の四方には細い廊下で繋がった塔が四本立っており、それがそれぞれA棟B棟C棟D棟と呼ばれ、その細長い塔の一階ごとに十から五つ程度の独房が設置されていた。
 塔は上へ行くほど細くなっているので少しづつ部屋も狭くなり部屋数も少なくなっていく。
 外側を覆う壁がこの塔の一番上までフォローしていればいいのだが、常に吹雪きが吹き荒れるこの環境で塔の上からの脱出はほぼ不可能と考えたのか、単にそこまで作る気力がなかったのかはわからないが、壁は塔の半分くらいまでしか高さはない。
 その為塔の上へ行けば行く程吹きざらしになり、寒さが厳しくなるという仕組みになっていた。
 この建物は部分的にコンクリートで補強されてはいるが、正面の大門の鉄の扉はしょっちゅう凍って動かなくなるわ、剥き出しの床や壁のせいで建物全体が天然の冷蔵庫になっているわ、はっきり言って「住む」という事に適していない。
 中に収容した人間達を快適に住まわせる為に造られたのではない事だけははっきりしているのでその辺りに関しては仕方が無いと言えば仕方が無いのだが、この建物を改装した人間は囚人以外もそこに居なければならない事を忘れていた様だ。
 こんな辺鄙な場所の近くに大きな都市や何か買い物が出来る施設などない。
 吹雪の中を車を一時間走らせ、やっと小さな港が見えてくる程度の立地であり、一週間に一度海を渡って本土から物資が送られてくる。
 まず、希望してここへ来る者はいない。
 捕らわれる方も、それを閉じ込める方も。
 倉庫があった建物と今から向う塔を繋ぐ狭い廊下に、びゅうびゅうと吹き荒ぶ耳障りな音とファイの泣き声、それに二つの足音が響いていた。
 渡された鍵束から一つを選び、塔の一階部分の扉を開ける。
 車や飛行機が当たり前のこのご時世に、まるで古城を思わせる様なカビ臭い階段を上へ上へと上りファイの独房に辿り着いた時、男はあまりの光景に目を疑った。
 部屋一面に散らばる楽譜。
 床や壁にも、記号の羅列が石膏か何かで書き殴られている。
 ファイは呆然と立ちすくむ男の腕からするりと抜け出すと、その一見異様な部屋へ自ら入っていく。
 ガシャンと冷たい鉄格子の音を聞き、慌てて男は施錠をした。
 ファイは慣れた足取りで足元の楽譜を踏まない様に移動すると、びっしりとメモが書き込まれた書きかけの譜面が散らばる簡素なベッドに倒れ込んだ。
 そうして、薄い毛布を引き寄せ頭まで潜り込むと、もう一度しくしくと泣き始める。
 男が一体これは何なのだろうと困惑していると、施設の明りが全て落ちた。
 気付けば消灯時間になっていた。
 時間が来れば中央の建物の幾つかの施設を除き、全ての電気は強制的に落とされる。
 慌てて男は携帯していた非常用のランタンに手を伸ばした。
 ガタガタと揺れる薄汚れた窓枠からぽっかりと月が浮かんで見え、そこから差し込む弱い光が薄暗い部屋に蹲る毛布の塊を照らしていた。
「……今日から、俺がこの区画の担当になる」
 個室は全部で五つ、人が入っているのはこの一つだけ。
 D棟の八階、ここはファイを閉じ込める檻であり、城の様だった。
「黒鋼だ」
「……くろがね」
 毛布から金色の頭をぴょこりと覗かせ、ファイが言葉を追った。
「黒鋼。おやすみ。どうか心安らかに」
 祈る様な声に黒鋼はため息を吐き、その場を後にした。




 気になった、というより、あれで気にならない方がおかしいだろうと黒鋼は自己弁護した。
 この極寒地獄の強制収容所に送り込まれるのは、政治犯か思想犯の類いになる。
 そこに、あまりにぽっかりと浮いたふわふわした存在。
 有名な指揮者である事は知っていた。
 ここへ送り込まれる経緯も理解してはいる。
 だが他の囚人達と違い、ファイは内側にぎらぎらと燃える意思や思想をみなぎらせる訳でもなく、改革半ばで捕らえられ失意に沈む訳でもなく、ただそこに居て息をしていた。
 あまり他人の事を詮索する事は好ましくなかったが、どうしてもひっかかる違和感の正体を知りたいという誘惑に負け、この施設では先輩にあたる同僚達に話を聞くと、ファイに関する様々な逸話が次々と飛び出した。
 毎日の単純な作業に暇をもて余している看守たちにとっても、ファイは興味の対象になりやすいらしい。
 まず、天才と変人は紙一重だという事をありとあらゆる人から聞かされた。
 ファイはこの国お抱えの楽団の常任指揮者だった。
 指揮者としての才能は高く評価されており、特に感受性が豊かで表現力がすばらしいと言われていた。
 大きな演奏会や他国を招いて行われる催しの際には必ず彼と、彼の楽団の姿が見る事が出来た。
 ――平和だった頃は。
 国民にとっては下らない理由で隣国との戦争が始まると、彼らの活躍の場は極端に減っていった。
 音楽にも規制がされ、演奏するに適した音楽、適さない音楽と隔てられ、望まない公演を行わなければならない事が増えていった。
 戦争が始まって数年後、戦地へ向う兵達へ向けた公演会を行う事になった時、国の重鎮が揃う中でファイと楽団は一曲の交響曲を演奏した。
 平和と自由を訴えたその曲は第一楽章を終える前に憲兵達に中止させられ、その場で捕らえられたファイはそのまま強制収容所行きとなった――というのが彼のこれまでの人生だった。
 ここまでは黒鋼も知っている情報ではあった。
 何しろ新聞沙汰になでまったその事件は、その場で全ての演奏者達が逮捕されたという大捕物になったのだ。
 楽団は解散、メンバーは釈放されたものの今までの地位や名誉を全て失い、責任者であの公演を行う指示をしたとして指揮者のファイ・フローライトが強制収容所へ送られた、というのが世間一般の人間が知る事の出来る結末になる。
 メディアは軍の手柄を大きく取り扱ったが、水面下ではあるが堂々と音楽で自由を訴えた彼らを讃える声も僅かながら聞く事もあった。
 ばらばらにされた楽団のメンバーには同情の声も寄せられていた。
 が、ここへ来てからのファイは奇人・変人という扱いになっている。
 彼には、彼にしか聞こえていない音楽が常に頭の中に流れているらしい。
 時所かまわず口笛を吹き、常に鼻歌を歌っていた。
 机をピアノに見立てて演奏の真似事を始めたり、思いついたメロディーを壁に書き出す事もあった。
 目立つ金髪と蒼い瞳、それに気が触れた様な奇行を繰り返す彼は悪目立ちし、他の囚人にからかわれたり絡まれたりと問題も多く起っていた。
 しかし一見華奢でなよなよして見える彼は、意外と丈夫に出来ているらしい。
 数人の囚人に取り囲まれ私刑に合っていたのを発見し止めに入った看守は、どちらが加害者かわからない程きっちり殴り返していたファイの姿を見て目を丸くしたと言う。
 危険人物のレッテルも貼られた彼に近付く者は居なくなり、いつも独りで自分だけの世界に籠もる様になっていった……のだが。
 部屋に「積もって」いた楽譜達は、彼がいつの間にか外から仕入れた物らしい。
 時間と共に増えていくその量に看守達は首を傾げていたが、黒鋼の前任者であるD棟を受け持っていた看守がこっそり与えていていたのだろうという事で話は落ち着いている。
 それが上にばれたせいで彼は更に僻地に飛ばされ、代わりに黒鋼が来た、と言う話だ。
 どれほどその話に真実味があるか判断しかねたが、実際、前任者が居なくなってからはファイの部屋に新しい楽譜が増える事はなくなったという。
 ファイが前任の看守に、楽譜の見返りに何を差し出していたかという話が妄想と空想が入り交じった下世話な話になりかけた時、黒鋼は席を立つ事にした。
「お前も気を付けろ。見た目に騙されて良くしてやると、骨までしゃぶられるぞ」
「あいつに関わった奴は、皆不幸になるって話だ」
「楽団だって、あれのせいで全員職を失った訳だろ? 家族抱えて路頭に迷った連中だって居るらしいぜ」
「イカれた奴のしでかす事は、わかんねぇなあ」
 赤い顔をした看守達が酒臭い息を吐きながら笑う。
 そうしなければ寒くてやってられない状況下とは言え、随分ぬるい管理体制だ。
 北端のこの地でなければとっくにクーデターがおきているだろう。
「イカれた奴ね」
 それを言うのなら、ここに居る全員がそうだろうと黒鋼は思った。
 この建物は、政府に邪魔であると判断された人間が集められ、ただ朽ちていくのをしまい込んでおくだけの場所だ。
 日が落ち、また昇る時、寒さからか飢えからか死者がでる事がある。
 看守達もいちいち囚人達の体調を気にする事などないし、見回りも一日二回、朝と晩に寒い寒いと文句を言いながら塔を上から下まで通過するだけのおざなりなもので、死んでから数日誰にも気付かれず放置される事もあった。
 死刑にする訳ではなく、直接手も下さず、勝手に死んでいくのを待つという仕事。
 最低限生きていく糧だけは与え、閉じ込め、その環境に弱り死んでいくのを眺めるだけの日々。
 やる気のない牧場の様だなというのが黒鋼の印象で、実際囚人達は特に強制的に労働を強いられる訳でもないし思想を矯正する教育を受ける訳でもない。
 この現状を当たり前と受け入れ、それが自分の仕事だと思える人間のどこが正常なのか。
 寒さに凍えるのは囚人だけではなく看守も一緒だ。
 それに耐えうるだけの暖房器具が整った部屋や着る物を与えられているかどうかの違いだけで、この劣悪な環境に従事するという意味では看守もこの建物に捕らわれた囚人だ。
 檻の中に居るか外に居るかの違いだけで、この場所に派遣された時点で世間的に要らない人間と判を押されたのに変わりない。
 看守も囚人も、共にここで飼い殺しにされていく。
 他人を笑う余裕なんてどこにあるのかと一喝してやりたくなるが、そう言う自分だって同じ穴の狢だ。
 不満があっても、それを声高に叫ぶ気力はない。
 ただほんの少しだけ、気に入らない事を気に入らないと態度に出してみた。
 そうしてここへ流れ着いた。
 後悔は一切していないが、この結果は望んだ事ではない。
 それが今の黒鋼の現状だった。




 次の日、消灯時間が間近に迫る頃、ファイが昨日の倉庫の前にぽつんと立っていた。
 寒いのか僅かに震えている様だったが、腕を抱えたり手をすり合わすような寒さを訴える仕草はひとつも見られない。
 褪せたオリーブ色をした薄手のコートの下に、セーターやらへたったシャツなんかを何枚か重ねて着込んでいるが、白い首元が見ているだけで寒々しい。
 どうかしたかと声をかけると、ファイは細い指で扉を指し「鍵を開けてよ」と促がしてきた。
 こいつは自分の立場がわかっているのだろうかと思いながら、特にそれを拒否する理由も思いつかなかった為、黒鋼は鍵の束から一つを選び鍵穴に差し込んだ。
 がち、と音がして鍵は開き、扉を開けるとファイがするりと部屋へ入っていく。
 冷え冷えとした部屋にはグランドピアノが一台と、後は乱雑に譜面台や壊れた椅子などが詰め込まれていた。
 ファイはコートの袖を引っ張り、それで黒く艶のある表面をさっと撫でた。
 慣れた手つきで上蓋を開き、鍵盤を下から上まで一気になぞる。
 部屋にピアノの音が響き、黒鋼は慌てて音が漏れない様に防音の施された厚い扉を固く閉めた。
 そんな様子を余所に、ファイは自分の良いように椅子の高さを調節して座り、すっと小さく息を吸う。
 そして、は、と吐き出すと同時にメロディーを奏でだした。
 細い指が鍵盤を弾き、柔らかく暖かい音が心地良く黒鋼の耳に響く。
 ファイが鍵盤を叩く度、手首に巻かれた細い鎖とそれに付けられた名前と番号を刻んだタグが、カチカチと鳴る。
 それが耳障りだと思ったのは最初だけで、次第にそれも気にならなくなった。
 選曲はベートーヴェン、ショパン、チャイコフスキー、バッハと節操がない。
 突然始まった演奏会に黒鋼は驚いたが、何かに憑かれた様に熱演する姿を見ると止める気にもならず、ただそれを見守った。
 小一時間、息がつまる様な演奏の後、ファイは最後に深いため息と共に手を止めた。
 黒鋼が拍手をすると、それににこりと笑顔を返す。
「ねえ、黒たんはどこでピアノ弾いてたの?」
 ポロンポロンと適当な音を刻みながら、ファイが尋ねた。
 そのメロディーに聞き覚えはなく、即興だろうかと思いながらその少し風変わりな曲に耳を澄ます。
「黒たんって何だよ」
「ん〜? 黒鋼だから、黒たん。あれ、ヤだった? 黒みゅうのがいいかな」
「は? 冗談じゃねぇぞ」
「じゃあ黒むー」
「却下だ」
「ケチ。じゃあ最大級の譲歩で黒様」
 会話をしながらもファイの手は止まらない。
 まともに相手をするのが馬鹿らしくなった黒鋼は、ファイの体を肩で押しながらピアノの椅子に腰かけた。
 長くごつごつした指を鍵盤に添えると、ファイの即興曲に合わせて適当に伴奏を加え始める。
 ファイは目を輝かせ、頬を赤くしながら満面の笑みを黒鋼に向けた。
 黒鋼はそれをまともに見てしまった事を後悔した。
 はっとする様な邪気のない笑顔。
 ふいとそれに顔を背ける間に、ファイは「決定! 黒様!」と足をばたつかせる。
 抵抗する気力を失った黒鋼は、代わりに伴奏のテンポを狂わせ滅茶苦茶な演奏を始めたが、それはファイにとっては楽しいゲームの様な物らしい。
 少し挑戦的な笑みを黒鋼に返すと、負けじとそれについてくる。
 ばらばらになりかけていた音楽がまた一つになりはじめた頃、黒鋼も我慢できずくつくつと笑った。
「……どこでっつっても。別にそれを仕事にしてた訳じゃねぇよ。音楽を学ぶ為にこの国へ来て、音大入って勉強した。が、まあこんなご時世なんでな。手に職ってなると音楽どころじゃねえし、ごたごたしてる内に国外へ出るのも面倒になっちまった」
「ふぅん? じゃあどっかのオケに参加したり、演奏会したりはしてないんだ」
「ああ」
「勿体無い。黒様のピアノ、情熱的で素敵なのに〜」
「だからその渾名、やめろって」
「オレ本気だよ。何とかここから出てさ、今からでも実家戻ってピアノ弾きなよ。絶対その方がいいって」
「……できりゃあな」
「やってみなきゃわかんないってー」
「面倒ごとは御免なんだよ」
 とりつく島もないという有様に、もう、とファイが頬を膨らせた。
 ぽろんぽろんと鍵盤を叩きながら、巫山戯て肩をぶつける。
「本気だよ?」
 そう念を押すファイに、黒鋼はまんざらでもなく微笑んだ。
 暫く弾いていなかったとは言え、元々は好きで目指していた物を褒められるのは悪い気はしない。
 何より、こうして自由に音楽を奏でる事は楽しかった。
 そしてそれは音にも現れた。
 黒鋼の演奏もファイの演奏も、弾む様に軽やかに響いている。
「楽しいねぇ、黒様」
「だからそれヤメロ」
「じゃあ黒ぽん。黒りょん。黒むー。黒ぴょん。黒ぴっぴ」
「………もういい」
 どんどん酷くなる渾名に黒鋼はついに白旗をあげた。
 これだけ奇妙な名前を連呼されると黒様が幾分マシに思えてくる。
 ファイはけらけら笑い、その楽しい気持ちを表す様な軽やかなメロディーを奏でる。
 黒鋼はふわふわ体を揺らしながら演奏するファイを眺め、想像していた「捕らえられた音楽家」のイメージとあまりにかけ離れたその姿に少し困惑した。
 捕らわれる経緯となった行動には強い意志と信念が感じられた。
 今の彼は、捕らえられているという事すら忘れて子供の様にただ音楽を楽しんでいる。
 鎖に繋がれ閉じ込められ、音楽に触れやっと呼吸が出来たというように、のびのびとピアノを弾く。
 悲壮感も絶望も一切感じさせないその姿は、その明るさとは裏腹に酷く刹那的で目が離せない。
「ね、明日もここ開けてもらえたりするかなあ?」
 伺う様にそろりと向けられた視線に、黒鋼は頷いた。
 手放しで喜ぶファイを見ながら、もっと喜ぶ姿が見たいと思った黒鋼も現在の自分の状況を忘れていた……と言うより現状を放棄していた。
 二人の演奏は消灯時間ぎりぎりまで続けられ、黒鋼は同僚から忠告を受けてまだ数時間しか経っていない事を思い出し、苦笑した。




 次の日、食堂や廊下ですれ違ってもファイは昨晩のように黒鋼に馴れ馴れしく接する事はなかった。
 人前であのふざけたあだ名で呼ばれたらどうしたものかと考えていたが、案外彼はTPOをわきまえているらしい。
 その代わり、ファイは毎晩倉庫の前で黒鋼を待つようになった。
 誰にもばれないようにが大前提だが、いくら防音が整った部屋での演奏だったとしても、毎日同じ時間に黒鋼が居なくなる事で他の看守達も二人の逢瀬に気が付いた。
 遠回しにその事を尋ねてくる者やあからさまに嫌味を言ってくる者もいたが、そんな事が気にならないくらい黒鋼は毎日の演奏会にのめり込んだ。
 演奏するのは古典から近代音楽まで幅広かったが、それより二人で新しい曲を作る事が楽しかった。
 夜の間に演奏し、それを次の日までにファイが楽譜におこしてくる。
 昨日の続きはどんなメロディーにするのか、昼の間はそればかりを考えた。
 最初は一日の終り、消灯までの最後の10分だったのが次第に延び、10分が15分、15分が20分と、ファイが部屋の前で待つ時間も、黒鋼が鍵を持って現れる時間も申し合わせたかの様に早まっていった。
 時には消灯時間を過ぎた後も、ランタンと月明かりを頼りに演奏を続ける事もあった。  お互いの立場を忘れての行動はリスクを伴うが、お互いその事は口に出すことも考える事もしないようにしていた。  それはこのどうにもならない現実からの逃避であり、支えでもあった。
 ――そして今日も二人は倉庫に籠もり、二人だけの演奏会を楽しんでいた。
「懐かしいなぁ。小さい頃ね、よくこうやって弟と遊んだんだ」
 並んで鍵盤を叩きながら、ファイが目を細めた。
 彼が自分から自分の過去の事を言い出すのは珍しく、手は止めなかったものの黒鋼は思わずファイを見た。
「ユゥイ・フローライト、か」
「あ、やっぱピアニストの名前はわかる?」
「そりゃな。兄が指揮者、弟がピアニストの双子の天才音楽家。この国で音楽にちょっとでも触れた事がある奴はモグリでも知ってるだろ」
 黒鋼のどこか大袈裟な言い方に、ファイは腹を抱えて笑った。
「そんな笑うとこかよ」
「や、何かおっかしくって」
 いつまでも肩を震わすファイを軽く小突くと、何が嬉しいのかニコニコする。
「……」
 黒鋼がふいに黙りこみ、ファイがは恐る恐る黒鋼の様子を伺った。
「オレ、何か気にさわるような事、しちゃった? あの、ごめんね。空気読めないとか言葉おかしいとか時々言われちゃうんだけど、他意はないって言うか馬鹿だからオレ」
「その弟。兄貴が取っ捕まってからピアノ弾かなくなったって話だ」
 ファイが思わずあっ、と声を漏らし、暫く視線を彷徨かせた後俯いた。
 そっか、と呟く。
「ね、最初に会った時の事覚えてる?」
 話が逸らされたと思ったが、黒鋼はそれを咎めなかった。
 覚えていると返すと、ファイが黒鋼を上目遣いで見上げ、ことんと首を傾げる。
「あの時どうして、あんなに悲しい気持ちで弾いてたの?」
 その瞳は本当に疑問を持っている者の目には見えなかった。
 暗に兄弟の話題に触れるなと言われたと思い、黒鋼は目を逸らし、少し思案した。
 もう少し踏み込みたい。
 黒鋼は白と黒の鍵盤にそっと手を添えた。
 どれを押せばその音になるのか黒鋼は知っていた。
 好きな曲だった。
 それが演奏するに相応しくないと分類された曲であっても、楽譜やレコードが全ての店から消え、その音を耳にする事がなくなったとしても手と耳が覚えていた。
 演奏が始まるとファイがぱっと顔をあげ、少し責める様な視線を黒鋼に送った。
 それを無視して演奏を続けると、ファイが立ち上がり、一呼吸の後両手を宙へ持ち上げた。




 ファイの指揮が始まる。
 ピアノのソロで始まった序章。
 頭に思い描くのは使い古した楽譜に書かれた沢山の記号と音符。
 ピアノからメゾピアノ、フォルテからフォルティッシモ。
 ここのクレッシェンドは繊細に。
 波の様に、新しい季節や知らない世界に心臓がドキドキし始めるあの感覚の様に。
 抑圧された世界から、いよいよ飛び出す高揚感。
 扉を開いた先が全く知らない美しい世界だと謳う為の曲。
 一歩足を踏み出す勇気を、ほんの少し聞いた者に与える曲。
 今は居ない演者にファイが指揮を出し、二人だけのオーケストラが始まった。
 狭い部屋はコンサート会場へと変化し、ファイの手には指揮棒が握られる。
 あの時のあの風景。
 皆で決めた最後の公演。
 これで終わりになるのなら、最後の一音まで魂を込めようと誓い合った。
 演者達の真剣な眼差し。
 双子の弟の、不安そうな瞳。
(ユゥイいくよ、そんな顏しないで。オレ達は、オレ達の出来る事をしよう)
 弟の自分と全く同じ蒼い目が少し泣きそうに揺れ、覚悟の表情へと変化する。
 繊細なメロディーが暫く続き、ファイの合図でヴァイオリン達弦楽器、そしてフルートなどの管楽器が追いかける。
 金管楽器を構えた演者達が、次の一音の為に息を吸う。
 広がる世界。
 重なる音。
 ファイがそれを支配し、黒鋼がそれを再現する。
 二人は同じ音を聞いていた。
 ――その音に、ノイズが混じった。
 ゴツゴツと固い足音。
 悲鳴。
 それから怒号と笛の音。
 最後の一音までと、演者達は楽器にしがみつく様にして演奏を続ける。
 式台から引きずり下ろされ、手にしていた指揮棒を奪われる。
 それが目の前で、みしりと音をたててへし折られた。
 最後までファイの耳に届いていたのは、ピアノの音。
 その音も途切れ、椅子から引き摺り下ろされた弟と目が合った。
 これでいいんだよね、ファイ。
 ユゥイの口がそう動いた。
 ファイは、ゆっくり頷いた。




「黒様」
 ファイは指揮をとる手を止めたが、黒鋼は構わず演奏を続けた。
 その音は繊細なものから、怒りが籠もった強いものへといつの間にか変化していた。
 指揮の手を離れた黒鋼は、今の感情を鍵盤にぶつけるように演奏を続けている。
「黒様。この曲はそんなに荒く弾いちゃ駄目だよ」
 声をかけたが黒鋼は、どこか意地になったみたいに手を止めなかった。
「……黒様は、辛い事や悲しい事を、怒りで表現するんだね」
 じわじわとファイの両目に涙が浮かんだ。
 今黒鋼が何に怒り、何の為に悲しんでいるのかが伝わって、それが暖かくてファイが泣いた。
「黒様ありがとう。でもこの曲はもう終ったんだよ」
 動きを止めない黒鋼にファイが自分の冷えた両手を添え、指先をそっと握った。
 音が止み、睨み付ける黒鋼の目と目が合う。
 出会った時と同じ様にファイはぼろぼろと泣いていたが、黒鋼はそれに怯んだり困ったりはしなかった。
「終ったんじゃなくて、てめえが止めたんだろが」
「この曲に、先はないんだ」
「ねぇ訳ねえだろ。俺が弾いてる」
 ファイがふるふると首を横に振る。
「ありがとう。でも、あの時音楽家としてのオレは終ったから」
「どうせもうすぐ戦争だって終る。わかってんだろ? そうなりゃここから出られる。また連中集めて好きなだけ公演をやりゃあいい」
「それじゃあ、あの時命をかけた意味がないでしょ?」
「ある命を捨てる必要はねぇだろうが」
「でも、そう決めたから」
 そう言ってファイが笑うと、突然部屋の明りが消えた。
 窓のない部屋は闇に閉ざされ互いの顔が見れなくなる。
「あれぇ、もうそんな時間だったんだ」
「……そうだな」
「今日はもうお開きだねぇ」
「……ああ」
 何かを諦める様な黒鋼の口調に、ファイは見えないとわかっていながらやんわりとした笑顔を送った。
 ぐすぐすと鼻をすすり、綺麗とはお世辞にも言えないコートの袖で涙を拭う。
 黒鋼はすぐにポケットを探ったが、涙を拭ってやるハンカチの類いを持ち合わせていない事を思い出す。
 代わりに、かさりと手に触れた物を引き抜きかけ、やめた。
 必要にかられて常備するようになったカンテラに明りを灯し、それを頼りに扉を開ける。
 黒鋼の脇をすり抜け、逃げる様にファイが扉をくぐり抜けた。
「なあ。音楽家として終ったってんなら、何でまだ楽譜漁って、こうやって音楽に触れてんだ」
 黒鋼の言葉に振り返ったファイは、変わらない笑顔を浮かべていた。
「んと、老後の楽しみ……みたいなイメージ? わかる?」
「……わかんねぇよ」
 くにゃん、と首を傾げるファイに、黒鋼は小さな包みを投げつけた。
 受け止め損ね、それを額で受け止めるとファイは涙目になりながらそれを開く。
「なにコレ」
 くしゃくしゃの紙袋に入っていたのは小さく平べったい、丸いアルミの容器だった。
 蓋を開けてみると、中には半固形の製剤が入っている。
 鼻を近付けすんすんと嗅いでいると、黒鋼が呆れた視線をファイに寄越した。
「足とか……手に塗っとけ。特に指先。切れたり、割れたりしたら弾けなくなるだろ」
 言われてファイが軟膏を少し指先でなぞり、それを両手に擦り込んだ。
 ファイが黒鋼を伺う様に見ると、黒鋼は所在なさげに腕を組んだまま立ち尽くしている。
(何というか……)
 これは、彼的に照れているのだろうかと思うと可笑しくて、ファイは悪いと思いながら吹き出した。
「……なんだよ」
「これ、オレに?」
「そうでなきゃ、何でおまえに渡さなきゃなんねーんだよ」
「そりゃそうだねえ……嬉しいな」
 包みを大事にコートの内ポケットに仕舞い、それを服の上から抱き締める。
 その仕草を黒鋼はぼうと見詰めた。
「ありがとう」
 とと、と駆け寄ると、ファイが頭一つ分高い場所にある黒鋼の顔をまじまじと見上げた。
 薄暗いせいで殆どお互いの表情は見えないが、黒鋼はどこか居心地が悪く顔を逸らす。
 その瞬間、ぐいと袖を引かれた。
 体が少し傾くと、頬に柔らかいものが触れ、少し癖のあるふわふわの髪が黒鋼の顎と首をくすぐった。
 一瞬何が起ったのかわからず、直ぐに離れたファイの月明かりに反射する金色の頭を眺める。
「な、おま」
「えへへ」
 肩を竦め、ファイが悪戯っぽく微笑んだ。
 頬にキスをされたと気付き、慌てて手の甲で頬を拭う。
 手に触れた頬が熱を持っている事にどきりとした。
「っ、何考えて」
「コレの、お礼?」
 ファイがぺしぺしとコートの上から軟膏の入った紙袋を叩く。
「阿保か!」
 怒鳴るとファイがきゃああと嘘くさい悲鳴をあげながら背を向けた。
 一体どんな礼の仕方だ男の癖にと思った瞬間、ファイの部屋に散らばっていた大量の楽譜の事を思い出す。
 上がっていた熱が一気に冷める気がした。
 思わず、逃げていくファイの細い腕を捕まえ強く引いた。
「礼は、いらん」
 そのいつもより数段低い声に、黒鋼を見上げぽかんと目を見開いていたファイが困惑した。
 どう返すか暫く悩んでいると、掴まれていた腕が離される。
「オレは、礼が欲しくてそいつをやった訳じゃねぇ」
「――ん……えっと、ごめん、ね?」
「……いや……いい」
「ん。あの、じゃあ、行くね」
「ああ」
 黒鋼に背を向けると、ファイがぱたぱた駆けだした。
 先に行かれてもどうせ後から部屋の鍵を閉めに行く為顔を合わせる事になるのだが、黒鋼はゆっくり部屋を出た。
「ああ、畜生」
 怒った訳じゃ無いと言うタイミングを失った。
 ファイと並んでピアノを弾く事は楽しい。
 他愛の無い会話も楽しい。
 少しづつ、彼が自分の事を話す様になってきた事も、内心嬉しくて仕方が無い。
 縮まった距離が今のでまた遠のいてしまたかもしれない。
 と言うより、こちらが拒否をした形になってしまったかもしれない。
 そうじゃない。
 ファイに楽譜を渡していたという黒鋼の前任になる看守。
 顏も名前も知らないが、楽譜を受け取ったファイはやはりあんな風に嬉しそうに微笑んだのだろうか。
 あんな風に無防備に近付いて、頬に。
「阿保か」
 酔っ払い共の与太話など聞くんじゃなかったと、黒鋼はがしがしと頭を掻きながら重いため息を吐いた。



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