音楽家黒ファイ/むじこ





 あの公演があったのが一年前。
 久々に笑ったり楽しいと思ったり、誰かとはしゃいだりふざけたりしたな、とファイはここ暫くの出来事を振り返った。
 楽譜にまみれた個室の固いベッドの上で散らばったそれらに目を落とすと、書きかけの楽譜を一つ手に取り、それを眺めた。
 続きをどうしようかと口笛を吹きながら、赤い瞳のピアニストの事を思った。
 もっと彼と話がしたいと思うのだが、昨日はまずい事をしたと思う。
 荒々しい剥き出しの演奏に心を奪われ、彼があれだけ怒りを露わにする理由が知りたかった。
 どんな人なんだろうと思った彼は厳つい演奏や見た目とは逆にずっと懐が深く、何より音楽を愛している人だった。
 自分でも驚くくらい、彼と接触する事を望みそう行動した。
 あの場所にピアノがある事を教えてくれた「あの人」はもういない。
 誰かと関わる事なんてもう絶対にないと思っていたのに。
 黒鋼がピアノを触らせてくれた時、並んで演奏をし始めた時、あんまり嬉しくてかなり言動があやしくなっていたかもしれないと思う。
 その後も嬉しいや楽しいの連続で、ずっと興奮している様な状態だった。
 受信する側のファイが少々それを受け止めやすい性質だという事を差し引いても、彼は本当に感情が音に出やすい人だった。
 涙を流す代わりに怒り、それを音にする。
 それにのめり込み、引き摺られた。
 増幅された悲しみにあてられ、それが自分の為とわかると尚更で。
 あの時は愛おしいとさえ思う気持ちを止められなかった。
 勢い余って口にキスをしなかっただけマシだろうと思うのだが。
「あっぶないなーもー」
 感受性が豊か、そう今まで言われてきたがその反応は少々極端で、それで幾度も失敗をしてきている。
 大きな大会や公演会の日に演者達の緊張や高揚にあてられ必要以上に疲れたり、演奏中涙が止まらなくなって指揮どころじゃなくなったり、なんて失敗は数えあげればキリが無い。
 それがプラスに働く事も多い為今までの地位は築いていたのだが、正直ファイを良く理解してくれる楽団のメンバーやユゥイのフォローがなければやっていけたかわからない。
 全く知らないオケの指揮を振るなど恐ろしくて出来たものではなかった。
 演奏者達のその時の気持ちがダイレクトにわかってしまう共感と同調、それに溺れるのは気持ちがいいけれど恐ろしい時もある。
 演奏者の中に一人、体調が優れなかったり精神的に不安定な人間が一人混じっているだけで、それがファイにとって不協和音となってしまう。
 こっちだよとファイが導き、それに同調してくれる相手なら問題はないのだが黒鋼が示す感情は強く、ファイが抑えられるものではない。
 ピアノを弾く黒鋼の横顔を思い出す。
 少し目つきが恐いけれど、きりっとした男前だと思う。
 意外と面倒見もよく、ぶっきらぼうだが優しい。
 笑ったり照れたりすると可愛い面もある。
 ファイの目から見ても、とても魅力的でずっと一緒に居たいと思ってしまう様な、そんな人だった。
 現に、今この時も隣に彼が居ればと思う。
 ピアノがなくてもかまわない、話をしているだけでもいい。
 コントラバスみたいに低い声は、耳に優しい。
(それともティンパニかな)
 こうやってどうでもいい事を考えるだけでも気持ちがふわふわする。
 懐から紙袋を取り出し、その中に入っている小さな容器を取り出した。
 それを眺めるだけで口元が緩んでしまう。
「勿体無くて使えないよ」
 まるで宝石でも扱う様に丁寧にそれを包んで胸のポケットに戻し、ぎゅうと体を抱き締めると唐突に「すき」という単語が頭に浮かんだ。
 その好きが、音楽や黒鋼が生み出す音ではなく、彼自身に向けられていると唐突に自覚する。
 黒鋼が好き。
 優しいところもぶっきらぼうなところも、少しだけ恐いこちらを見透かすような言動も、全部好き。
 自覚するとそれはとてもわかりやすくて、思い出す彼の全てが「好き」になる。
 「好き」は同時に「幸せ」も連れてきた。
 他人を好きだと思う事はとても幸せに感じられた。
 彼の音をもっと聞きたいし、彼の話をもっと聞きたい。
 知りたい、知って欲しい、分かち合うという事をしたい。
 それはかなり強い願望で、その大きな感情はファイに我を忘れさせるのではなく逆に気付かせた。
 走った先にはぽっかりと暗い闇が待っている。
「――何、考えてんだか」
 ファイは身を起こし、溢れ出た感情を打ち消す様に頭を振った。
 お互いの立場を忘れあまり親密になってしまうと彼にとんでもない迷惑をかけてしまう。
 今でも黒鋼にリスクを負わせている事を考えない様にしながら毎日ピアノを弾いている。
 際限なく欲する事が出来る身分ではなく、その戒めを受ける覚悟をしてここへ入った筈なのに、案外ほったらかしにされるこのだらけた環境は都合が良すぎた。
 部屋に散らばる楽譜達。
 頭の中で演奏会を開いてこの一年を生きてきた。
 音楽に触れ続け、支えられていた為に今まで生きてこれた言っても間違いではないと思う。
 貪欲に音楽を欲しがりながら、手放す事を求める姿は「あの人」にはどう映っていたのだろう。
 そしていつか黒鋼も、呆れて、若しくは失望してファイの元を去って行くのだ。
 ファイには自分で決めた未来があるのだから。
「気付かなかったら良かった。いや、逆に今気付いて良かったのかな……」
 ぽつりと呟くと、突然胸にぽっかりと穴が開いた様だった。
 最近ではここに送り込まれる人間も減ってきた。
 黒鋼も言っていた様に終戦に向って動き出している流れの中、国内の戦犯を捕まえるどころではないのだろう。
 戦争が終るという事は、色んな常識や習慣がひっくり返る事になる。
 全てが終って色んな事が有耶無耶になるその前に、事の清算をしなくては。
「……ユゥイ、心配してるだろうな」
 弟の名前を久々に呼んだ気がした。
 鏡に映した様なそっくりの顏、細い手足に青白いと言える程白い肌、金色の髪蒼い瞳。
 記憶の中で、優しい弟は少し寂しそうに笑っていた。
 その後ろには、手に手に楽器を持った仲間達がいる。
 彼らがあれからどうなったのか思いを巡らせ――やめた。
 あの場で死んでも構わないと、全員で決めた。
 「先」は無いものでいい、そう決めた。
   躊躇わない事、後悔しない事、自分達で過去を否定しない事を誓った。
 あの曲はこの時の為に作られたものなのだから、それを演奏するのは音楽家の使命であると全員一致での選択をした。
 手にするのは武器でなく楽器。
 演奏する事で戦った。
 あの出来事に勝ち負けはなく、「独裁政権の中、それに逆らい自由を求めた音楽家達とその最期」のシナリオが後に偉い歴史学者達によってこんな酷い時代もあったのだと過去を学ぶ為の礎の一つとなれるのであれば、それが自分達が命を懸けて意地を通して得る対価になる。
 その為それぞれに科せられるペナルティは覚悟の上だった。
 解散を命じらればらばらになった楽団、離れ離れになった家族や恋人達、その一番の責任を負うのは演者達を導いた者の役目だ。
 早々に無くなると思っていた命は、ずるずると未練を残して今も生にしがみついてしまっているけれど。


 それからファイはピアノを弾きに行くことをやめにした。
 極力黒鋼との接触も避け、話しかけられても適当にふにゃふにゃ笑って返答した。
 最初は突然のファイの変化に戸惑い、苛立ち、やっきになって接触を取ろうとしていた黒鋼もじきに諦めあちらから話しかけてくる事も減ってきた。
 それを寂しく感じる気持ちは必死で殺した。
 辛い気持ちを慰める為に頭の中でいつも流れていた音楽も、聞こえない様に蓋をした。
 床に散らばる楽譜を一つにまとめ、目に触れる事のないよう封をした。
 これを託してくれた人の事を思うとどうしても処分する事は躊躇われたが、それも音楽に触れる事をやめてから一週間後に処分した。
 これで身辺整理が出来たと思うとほっとして、わかりやすく次の日には風邪をひいた。




 ガランとした部屋に一つだけある寝台に丸まって眠るファイの額に手をあてた。
 額から頬、首筋を手の甲でなぞると長い睫が震えてほんの少し蒼色が見える。
「起こしたか」
 元々起こす気だったがそれには触れず、緩く首を振るファイの背中を支えて座らせる。
 熱のせいで触れる体は熱いのに、寒いのか震えている。
 持って来た予備のコートを肩にかけ、水筒と薬を手渡すとそれを突っ返された。
 眉間に皺が寄るのと行動を開始するのはほぼ同時だった。
 支えていた背中を離して横に倒すと、顎を押さえ口を開かせ薬を放り込み水を流す。
 じたくた暴れる体を膝で圧迫し口と鼻を大きな手で塞いでやると、目をまん丸に見開いたファイの喉が動くのが見えた。
 薬を飲み込んだ事を確認して手を離すと、ファイがぷるぷる震えながら寝返りを打ち背中を向けてしまう。
「……っ鬼」
「やかましいわ」
 何度か咽せる背中を撫でてやる。
 ファイに触れるのも会話をするのも十日ぶりになる。
 避けられていると感じた時は、何とか関係を修復しようとした。
 倉庫の前で来ない相手を待つのも話しかけても逃げられるのも、最初の内は我慢したがそれもその内限界が来た。
 大きな喧嘩はしなかった、というよりも避けられ続けて出来なかった。
 出来上がってしまった溝を感じながら数日を過ごし、ファイが食事に現れていないと気付いたのがつい先ほど。
 姿を見せない様に逃げ隠れされていたものだから対処が遅れた、その事にも腹が立つ。
「ほっといてよ、オレなんか」
「ほっとけるか」
「人の気も知らないでさー」
「俺はエスパーか何かか。言わんもんをどうやって知る」
「……優しくしないでよう。何か、惨めな気分になる」
 弱々しい声に、ならばと頭を撫でてやる。
 首を振って嫌がるが、抵抗する力が残っていない事をいいことに抱き込んで固定し、後から両手を握りこんでさすってやる。
「晩は絶対に飯食いに降りてこい。でなきゃこうやって毎日来てやるからな」
「そんな」
「そんで、レコード持って来て檻の外からかけてやる。マーラー、ハチャトゥリアン、ボロディン、それともワーグナー、ラヴェルなんかもいいな」
「……やめてよぅ」
「俺を嫌ってんのはそっちの勝手だ。別にとやかく言わねぇ。嫌なら自力で逃げてみろよ。逃げるだけの体力が残ってりゃな」
 している事は限りなく優しいけれど、かける言葉は重く厳しい。
「あの扉を開けろと言ったのはおまえだぞ」
 返事をしなくなったファイの頭を撫で、横に寝かすと毛布とコートをしっかりかける。
「それ、着てろ」
「……いらない。大きいもん」
「今晩みかけて着てなかったら、あの倉庫に縛り付けて一晩中『悲愴』を聞かせてやる」
 いいな、と念押しして部屋を出る。
 最早人の目など気にもしない。
 ファイに避けられすっぽかされ、いじけていたところを同僚達にご愁傷様と哀れまれたこの一週間の事を思い出すと腸が煮えくりかえる。
 最後に一緒にピアノを弾いた日、別れ際に怒る様な態度を取ってしまったが、たったあれだけでここまで引き摺られてはたまったものではない。
 別に理由があったとしても、それを伝えず隠しているのが気に入らない。
 ここまで気を引いといて何も言わず突然全てを終わりにしてさようなら、なんて事が許される訳がなかった。
 優しくされるのが嫌ならとことん優しくしてやりたいし、側に居て欲しくないのなら貼り付いてやろうかと思う。
 黒鋼はがつがつと八つ当たりする様に石造りの階段を踏み散らしながら、次はどうしてくれようかと思案していた。




 耳に五月蠅い機械音が響き、ファイは重い瞼をうっすらと開けた。
 いつの間に眠っていたのかはわからない。
 ただ、薬が効いたのか幾分体調がマシになっていた。
 食事の合図であるその音と同時に、階下からは人の話し声や物音が響いてくる。
 ふとふわふわした触感の物が手に触れた事に気付き、それを手繰り寄せると黒鋼のコートだった。
 内側とフードにもこもこしたボアがついており、色は黒。
 私物なのかそのデザインに見覚えは無い。
 暫くそれをじっと眺めてどうしようかと思っていたが、着なければベートーヴェンの刑である。
 黒鋼は本気でファイを縛り上げ、倉庫に監禁して一晩中ピアノを弾くだろう。
 ぶるると身を震わせ暖かいそれに袖を通すと、思った通りかなり大きかった。
 肩の位置は合っていないし裾も長い、袖もかなり余っている。
 カッコ悪い上にどう見てもファイの物ではない事がわかってしまうのだが、もういいやと立ち上がる。
 のろのろふらふら食堂へ向い、居る筈の相手を探すとやはり居た。
 人が集まる所には必ず監視係の看守が何人か配置されるのだが、まるでスナイパーの様な鋭い目つきでファイを睨み付ける黒鋼がむっつりと口を引き結んで立っていた。
 ちゃんと来たし着たよ、とアピールすべくひらひらと手を振ると、じろりと睨まれた。
 周りの視線を感じたが、熱でぼおっとしているせいなのか先ほどのやり取りのせいで自棄になっているのか、もう色んな事がどうでも良くなっている。
 食欲はなかったが美味いとは到底言えない食事にも手をつける。
 少し意地になっていた。
 もう来ないでねという意思を込めて、帰りは黒鋼の前をあえて素通りした。
 自分勝手な事をしている事はわかっているし、食堂を出た後は自己嫌悪に襲われぐったりした。
 情けない気持ちを抱えながら塔へ引き返そうと細い廊下を目指した時、ふと、目の前の景色にいつもと違う部分がある事に気が付いた。
 見ない様にしようとして逆に意識してしまっていたから気付いた事だった。
 倉庫の扉がほんの少し開いている。
 いけないと思いながら中を覗くと、グランドピアノの上蓋が開いた状態で白と黒の鍵盤がファイを待っていた。
 足が勝手に動いた。
 誰が鍵を開けたのかなんて考えなくても答えは一つで、それはどう考えても罠だった。
 しっかり扉を閉め、おいでと誘う様に並ぶ鍵盤達にそっと触れる。
 ポン、と綺麗な音がした。
 触る人が限られている筈のこのピアノは、きちんと調律されている。
 一度その音色を耳にしてしまうと止められなかった。
 この一年間ファイの心を支えてきたそれに、もう一度触れた。
(この施設が出来たずっと昔にはね、一ヶ月に一度、形だけではあるけれど慰霊際を行う事になっていたんだよ。レクイエムを弾く為にこのピアノは用意されたんだ。その習慣も、いつの間にかなくなってしまったけれどね)
 そう教えてくれた人が弾いていたのはシューベルトの子守歌だった。
 柔らかく綺麗な音は、真似しようとしたけれどうまくいかなかった覚えがある。
「ユゥイならもっと上手に弾くのになぁ」
 ファイもピアノをはじめ、幾つか楽器を嗜みはするが、本職の演奏者達には適わない。
 ……ぶっきらぼうな彼ならどんな音を奏でるのだろう。
 そんな事を考えながら、黒鋼の音を真似てみようと少し強く鍵盤を叩いた。
 なめらかに指を動かしながら、音に想いを乗せると自然と胸が苦しくなり、眉根が寄った。
 一曲弾き終わる頃には目尻に涙が溜まり、息を吐く。
 暫く呆けていると、少し早くなっていた心臓が落ち着き、ファイはピアノの上蓋を閉めた。
 一人で弾いても寂しいな、なんて考えていると、がちりと扉が開く音がした。
 もう逃げられない事を覚悟して、ファイは黒鋼を出迎えた。
 気まずさはあったが、今までのように意固地になろうとは思わなかった。
 情けなく微笑むと、黒鋼の表情も少し和らいだ。
 椅子に座るよう促され、それに従う。
「何が弾きたい?」
「……今は聞きたい」
「リクエストは?」
「悲愴、月光、テンペスト、ワルトシュタイン」
「おう」
「幻想、葬送、それから、子守歌」
「……おう」
 黒鋼が鍵盤に指を置くと、邪魔になるなと思いながら大きな肩にもたれ掛かった。
 文句も言わず、黒鋼が演奏を始める。
 一週間ぶりに呼吸をしたような気分だった。
 染みこんでくる音に身を委ね、ファイは目を閉じた。




 幼い頃、籠につっかえ棒を引っかけ、その下に穀物をばらまいて鳥を捕った事を思い出していた。
 雀だったり鳩だったり名前も知らない野鳥だったりもしたが、今日捕れたのはヒヨコだ、蒼い目の。
 餌を置いて待っていると案外あっさり引っかかり、ひとしきり餌をついばむのを眺めた後蓋をした。
 まんまと罠に引っ掛かったヒヨコは、羽をパタパタさせながらピヨピヨ鳴いた。
 そいつはまだ腹が減っているらしい。
 俺は籠の中に、残った餌もばらまいた。




 リクエストされた曲を次々と弾いていくと、最後の子守歌でファイが目を開いた。
 何か思い入れがあるのかも知れないと思い、試される気持ちになる。
 黒鋼はあえて、子守歌を恐ろしく早いスピードで弾いた。
 強く鍵盤を叩き、伴奏にアレンジを加えたそれは最早子守歌ではなく行進曲だった。
 最初呆気にとられていたファイはけらけら笑いだし、寝た子も起きるねとコメントを加え、少し大袈裟なくらいの拍手を黒鋼におくった。
「想像の斜め上だったなぁ」
「何だよ想像って」
「君ならどんな音で弾くのかなって想像してたの。アンコール、お願いしていい?」
「……何がいい?」
「黒様のお勧めで。子守歌を越える一曲をお願いします」
 へらんと笑うファイの言葉の意味を、黒鋼は考えた。
 相変わらず訳のわからん奴だと思いながら、一呼吸の後そっと優しく鍵盤に触れた。
「……エルガー」
 作曲者を言い当てたが黒鋼からの反応はなく、ファイはじっとその曲に耳を傾けた。
  Salut d'amour 確かエルガーが結婚する前に奥さんに贈った曲だったなと思い出しながら、その優しい旋律と響きに心を傾けた。
(あれ? これマズイ)
 そう思った時には手遅れだった。
「なあ、おまえもう少し単純に物事を考えてもいいんじゃねぇのか?」
 落ち着いた声色を聞きながら、ファイが俯いた。
 あえてそう聞かせているのかそれともこの曲の所以のせいなのか、黒鋼の演奏には愛情に溢れていた。
 それは十日前、自分の内側から出てきて慌てて蓋をした物に酷似していて、聞いているだけで気持ちがざわついた。
「少なくとも、俺はしたいと思った事だけしてるし、嫌だと思った事はしねぇ」
 ばれない様に深呼吸して、早くなる動悸を抑えようとしたが、上手くいかない。
 話をしながら、黒鋼のピアノは止まらない。
「いいと思えば評価する、気に入らなけりゃそっぽ向く」
「……嘘。黒様結構天の邪鬼じゃん。最初の悲愴だって」
「わかりやすいだろ?」
 ピアノを弾きながら、黒鋼がファイに笑いかけた。
 伺う様な赤い瞳と目がかち合って、ファイは半笑いのまま固まった。
 こんな時、色白なのが恨めしかった。
 顔色の変化は直ぐに出る。
 きっと首から赤くなっているだろうと思われる顔を、ファイは隠しようも無く俯いた。
「こういうの、ずるい」
 声がうわずった。
 少し目の前が陰ったと思うと、こつりと額がぶつかり鼻がするりと触れた。
 くすぐったい。
 心地良い。
 ピアノの音が止んで、黒鋼の両手がファイの頬を包んだ。
「おまえ、熱あんじゃねえか? 顏真っ赤だぞ」
「……ここで茶化さないでよ。そりゃ熱も出るよ。頭熱いし心臓おかしいしふらふらす」
 言葉が終る前に唇が塞がれた。
 窒息する程長い口付けの後、やっと解放されたファイは黒鋼に身を預けて倒れ込んだ。
「……オレ、一応病人なんだけど」
「おまえ文句ばっかだな」
「文句も言いたくなるよー。人がせっかく迷惑かけちゃ駄目だって思ってさー離れなきゃって思ったのに」
「逃げようとしただけだろ」
 ざくりと告げられ、二の句が告げられなくなる。
 ぐっと言葉に詰まった様子を見て、黒鋼がファイの背中を優しく撫でた。
「ここを出るぞ」
 諭す様に言うと、ファイが首を横に振る。
「――それは、出来ないよ。これ以上は駄目」
「今更ここでくたばりたいなんて思えんのか? 一緒に居たいだろ」
 自信満々の言葉に、ファイが視線だけを送った。
 腕の中から見上げると、黒鋼はさもそれが当たり前で何も不思議な事はないという顏でファイを見下ろしている。
「……なんかもう、凄いよね。そこまで堂々と出来たら羨ましいというか何というか」
「おまえ自分で音楽から本気で離れられると思ってんのか? 十日離れただけで生きる目的も見失う位弱っちまうくせに」
「離れるんだよ。その結果どうなるかじゃない。オレは離れなきゃ駄目なんだ。黒様だって、ずっと一緒に居られない事わかってるでしょ? もう現実見ないと駄目なんだよ。綺麗なものばかり見てはいられない。そうでしょ?」
 問いかけながら、ファイは自分に言い聞かす様に言葉を吐いていた。
 必死の訴えを聞きながら、黒鋼は縋り付く様に袖を握り、震えるファイの拳を眺めた。
 ファイの言う事もやる事も、何もかもがちぐはぐだと思う。
 誰がファイをここまで追い詰めたのか考えると、犯人はファイ自身だとしか言えない。
「決められた不条理を正す為におまえはあの曲を選んだんだろう。やってる事と言ってる事が、他人と自分で違うだろうが。それに、迷惑って言うなら、もう一年前にかけられてんだよ今更だ」
 逃げようと体を反らすファイの肩を掴み、強く抱き寄せる。
 ファイがえ? という表情のまま固まった。
「どういう事?」
「あん時、俺はあの会場に居たんだよ」
「……あの時?」
「客席に居た。てめえにあんなもん聞かされて、全部阿保らしくなって除隊した」
「……客席?」
 二〇〇人は入る広い劇場に居た客の殆どは、遠征に出る兵士達だった。
 響けよと願って指揮をしたが、ほんの数分でどこまで届いたものかわかったものではなかった。
 あえて禁を犯し捕らわれる姿が滑稽に見えるならそれでもいい。
 けれどもし伝わるのなら、死ぬな生きろ、そして自由にと。
「最前線行きが決まってたからな。お陰で命を拾った訳だがスパイ扱いされて捕らえられて取り調べ食らうわ、疑いが晴れても国外退出禁止になっちまったから国にも帰れねぇわ、散々な目にあった。せっかくその元凶に直に会えたから文句の一つでも言ってやろうと思えば、あん時の阿保はすっかり隠居生活きめこんでやがる」
 ぐりぐりと頬を撫で、頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
 されるがままに玩具にされながら、ファイはふつふつと内側から沸き上がるものに耐えていた。
「終ってんなら放っておこうと思ったが、ちょっと餌与えりゃ未練たらしくがっつきやがって。キラキラ目え輝かせてピアノ弾いて馬鹿じゃねえのかてめぇ」
「……っふ、ふふ」
 堪えきれず、ファイが口元を押さえて肩を竦めた。
「なにー黒様、最初からオレの事知ってた訳? って言うか当事者じゃん。どうして言わなかったのさー」
「うるせぇ。あん時見た奴とおまえがあんまりかけ離れてるから、良く似た別人じゃねぇかって思ったんだよ」
「それでオレにピアノ弾かせたの?」
「試した訳じゃねえ。それに、弾きたがったのはおまえの方だろ惚れた弱みだ」
 ファイが盛大に吹き出した。
 鍵盤に突っ伏して震える背中を黒鋼が叩く。
「……失礼だろ」
「だって、いきなり恥ずかしい事言うから……」
「俺はずっと、あの続きが聞きたかった。てめぇの事は予定になかったが、こうなりゃ一石二鳥なんだよ。てめぇを連れてここから出りゃ、俺の望みは一気に叶う」
「黒様の望み?」
「おまえと生きる、あの時の続きをな」
「……どストレート」
「おまえの望みは?」
 真っ直ぐ問われて、ファイは情けない顔で笑った。
「……響いてたんだ」
「あ?」
 ファイが大きく息を吸った。
 黒鋼の腕の中で、ぐいと背筋を伸ばす。
「オレ達の音楽は、ちゃんと黒様に届いてた」
 大きな目が涙で潤んでいた。
 うんうんと頷きながら、目を擦る。
「ああ、響いてた。響いて、人生変えられた。だから責任取れ」
「ぶしっ」
 後頭部を掴まれ、厚い胸板に顔を押しつけられファイが呻いた。
 次の瞬間うええと情けない声が聞こえ、長い襟足を指で梳く。
 ファイをあやしながら、音楽以外で泣かせるのはこれが最後になればいいと黒鋼は願った。
 ぼろぼろ零れる涙を拭ってやると、ファイが泣きながら笑った。
 震えながら開く口が戦慄いている。
「……オレの望み。黒様と、一緒に居たいよぅ。ずっと一緒に、同じ音を聞きたいよぅ」
 よく言えたとばかりに黒鋼がファイの頭を撫でた。
 親指の腹でまだ溢れる涙を拭いながら、額にキスをする。
「ここを出るぞ」
 強い意志が込められた言葉に、ファイが小さく小さく頷いた。




 それからの黒鋼の行動は恐ろしい程迅速だった。
 深夜の警護などあってない様なものなのは確認済みだった。
 通信機と監視カメラのコントロールパネルを念のために壊し、運悪くその場に居た同僚には暫く昏倒してもらう。
 よくよく考えればここへ来る前は軍人さんだったとファイが感心していると、どこからか用意してきた食料と燃料を詰め込んだ鞄と一緒に手際よく毛布で簀巻きにされ、あれよあれよという間にソリに固定され身動きが取れなくなる。
 まさか「今すぐ」ここから出ると思っていなかったファイは心の準備もクソもなかったが、随分前から下準備をしていたらしい黒鋼に迷いはない。
 ファイは小さなソリに乗せられ運ばれながら、気配で裏門から出たことを覚った。
   頭から毛布を被せられ荷物にもたれ掛かる今の状態は暖かくはあるのだが視界はゼロだ。
 一応、脱獄になる訳だから見付からない様にするのはあたりまえだが、一体今どういう状況なのかが気になって耳を澄ます。
 さくさくと雪を踏む足音と吹雪の音がごうごうと響いている。
 首から上を動かして毛布に隙間を作り何とか視界を確保すると、小さくなっていく建物が斜めに降る雪の向こう側に微かに見えた。
 これから先がどうなるかはわらかないが、黒鋼と一緒なら何とかなる気がした。
 心臓がどきどきと高鳴ったが、それは熱のせいでも緊張のせいでもなかった。
 何か素敵な事が起るのを待つ様な高揚感でファイの胸は満たされていた。
 気持ちを抑えきれず、口笛を吹き始める。
 曲は黒鋼が出会った時に弾いていた「悲愴」。
 悲しいメロディーはBGMとしては相応しくない様に思われるが、この特別な曲は今の心境にはぴたりとはまっていた。
 黒鋼が足を止め、ファイの頭をすっぽり隠している毛布を少しだけ広げて中を確認した。
「せめてワルキューレとかにしねぇか?」
 苦笑いしながら手袋を片方だけ引っこ抜き、ファイの頬に触れ冷えていないか確認する。
 にこりと笑うファイの頬を親指でぐいぐいと撫でると、もう一度丁寧にファイに毛布を巻き付けた。
「なあ、いっこだけ聞いていいか」
 毛布の上からかけられた言葉に、ファイがもぞもぞと身動ぎする。
「何?」
「あの楽譜をおまえにやった奴の事だが……あいつは、何だったんだ?」
「何って……何?」
「知らん。それを聞いてる」
 そっけなく言うと、黒鋼は歩みを再開する。
 揺れるソリの上でファイは暫し考え、にやりと笑った。
「嫉妬?」
「うるせえ!!!」
 否定しないのが可笑しくてファイが笑った。
 やきもきする様子が可愛くて、ファイはこの後黒鋼がどれだけ聞きだそうとしても答えなかった。
「ヤキモチやかれるのって、うきうきするね!」
 遂にはそう言い放ったファイに、黒鋼は聞き方を間違えたと苦笑いした。



 エピローグ

 すったもんだはあったが国外へ逃れ、二人は黒鋼の実家に転がり込む事が出来た。
 黒鋼の両親は黒鋼の心配を余所に、音信不通になっていた息子が「恋人」を連れて帰ってきた事を喜び、諸手を挙げてファイを歓迎した。
 その息子はその日、綺麗に並べて敷かれた布団に膝から崩れ落ちる思いをしたが、帰ってきた放蕩息子を暖かく迎えてくれたこの家族にはやはり頭はあがらない。
 ファイはと言うと、初めての布団やお風呂を満喫し、次の日には黒鋼の父と母を「義父さん、義母さん」と呼ぶ勢いだ。
 ファイが長男だから嫁に貰うのは相手の親御さんが嫌がるのではないか――どうやら身内は双子の弟だけで家を継ぐという事はないらしい――ならば大丈夫かと夜遅くに密談をする父と母を見た時はもう好きにしてくれと思ったが、押しの強い両親に少し感謝した。
 外堀から埋めるつもりなのか、両親はファイという嫁を逃すまいと、新婚用の家財道具を取りそろえつつある。
 暖かすぎる応援の元、二人の仲はそれなりに進展しつつある。
 その事には全く不満はない。
 戦争が終るとユゥイや楽団のメンバーとは手紙で連絡を取ることが出来た。
 ファイが指揮者として復帰したのはそれから二年後になる。
 双子の弟は最愛の兄の恋人として現れた黒鋼に現在も敵意を見せているが、一緒にピアノを弾いている間は驚く程調和が取れた音を出す。
 ファイ曰く「ユゥイはプライベートと音楽は別」らしい。
 何があっても楽器を手放さなかった楽団のメンバーを一人も欠かす事なくもう一度揃え、二人目のピアニストを迎えての公演はまず黒鋼の国で行われる事となった。
 あの時続ける事が出来なかった曲を今度は最後まで、ずっと聞きたいと願っていた曲を今度は演奏者として。
 大きなホールは観客で一杯になり、不死鳥のごとく蘇った楽団を観衆は暖かく迎えていた。
「あの人はねぇ、オレの音楽が好きな人だったんだー。音楽を続けて欲しいってずっと言ってたんだけどオレはうんって言わなかったから、がっかりして出て行っちゃったんだ」
 本番5分前に二年前の返答を告げられ、黒鋼は少し驚いたが満足そうに笑った。
「……根気が足りねぇな」
 得体の知れない過去の人物が取るに足らない相手だと知ると途端に気が大きくなる。
 よしよしとファイを抱き締め甘やかすと、腕の中でファイがにこりと笑った。
「でね、今日の公演は楽しみにしてるって。わざわざ飛行機乗って聞きに来るって手紙が――」
 控え室から響いた怒号と悲鳴を楽団の人間達は聞かなかった事にした。
 後日、黒鋼のピアノは「挑戦的で荒々しく情熱的」と音楽評論家達に評される事となった。





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まず、素敵企画にお誘い頂きありがとうございます
主催の紅理さん、サイトを作って下さったたくみさん、感謝です。

今回は音楽家黒ファイというお題で書かせて頂きました。
難しい題材でしたが、素人なので用語なんかが間違っていたらすみません。
音楽は聞く分には昔から好きで、家にあるオーケストラのレコード聞いていたりしたので楽しかったです。
大好きな映画「オー〇ストラ!」をちょこっと参考にしていたりします。
すごくいい映画ですのでそちらも是非……
音楽家なのに追加設定が脳内で広がって付属しちゃったもんだから話にまとまりつかすのに時間かかりました。
かかりすぎて、締め切りぶっちぎりました本当にすみません。
では最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
無限の可能性を秘めた黒ファイの繁栄を祈りつつ……。

2013/06/02

むじこ