警官パロ/まめしろう





夏の桜


 ――夏の桜 前編――


 ずっと一人でやっていく。そう、思っていた。
 黒鋼が署に戻ると、その男はいた。無骨な警察署にそぐわない、金糸のように柔らかく光る髪に陶器のような白い肌。黒鋼の乱雑なデスクの上に座ってすらりと伸びた足を組み、物憂げに外の景色を眺める様はさながら海外のファッション誌から抜け出たようで、黒鋼は思わず息をのむ。ふとこちらに気づいたその男は、さっきまでの憂いを帯びた表情からは予想もつかないほどの幼い笑みをうかべ、貴方は黒鋼さん?と問いかけた。
「あ……あぁ」
 自分が思ったよりも戸惑った声が出て、黒鋼は心の中で舌打ちをする。他人に、ましてや初対面の人間に弱みを見せるなど、自分が一番嫌うことであるのに。
「誰だ、てめぇ」
 先ほどの声を打ち消すように、語気を強めて睨みつけた。
 その男はデスクから軽やかに降りると、またも笑顔を見せて片手を差し出した。
「ファイ・D・フローライトです よろしく 黒たん」
「くろ……勝手にあだ名つけてんじゃねぇ」
 その手は取らずに黒鋼は、椅子をひいて自分のデスクに腰かけた。
 その瞬間ふと思い当たって顔を上げる。
「まさか、お前……俺の……」
「ぴんぽーん 正解です 君の相棒だよ」
 この春、警部に昇格した黒鋼に、パートナーをつけると話があったのはつい先日のことだ。具体的な日にちは、人事の手続きを確認してからと署長からは聞いていたが、こんなに早く異動してくるとは思わなかった。
「そうは言っても、オレは警部補だからー 黒たん警部の部下になるのかな」
「部下だろうが相棒だろうが、俺には関係ないことだ」
 黒鋼はこれまでもずっと一人で事件解決にあたってきた。危険な目にあったことがないといったら嘘になる。だが、仲間の必要性を感じたことは一度もなかった。
「あれー そんなこと言っていいのかな? 黒たんを昇格させるかわりにオレをつけることになったって聞いたけど?」
これまでも、黒鋼に昇格の話は持ち上がっていたものの、昇格とともについてくる部下の管理――常に一匹狼で動く彼にとっては部下をまとめるなど煩わしいことでしかない――ずっと断っていたのだ。だが、役職があがれば権限の幅も広がり、やりたい仕事がしやすくなるのはわかっていた。今回は、自分の所轄の部下達をまとめなくてもいい代わりに、新しくつけるパートナーの管理を任せるという条件で、署長の言い分を飲んだのだった。
「オレが黒りんのかわりに巡査たちをまとめるんだから、感謝してもらわないとー」
 それに、とファイは黒鋼に顔を近づけ、黒鋼のネクタイに手をかける。
「うまくオレを管理できないと、管理者としての手腕を問われますよ黒ぽん警部」
「な……何しやがる」
 ファイは黒鋼に掴まれた手首を、合気道の要領で体の外側へ振ってさりげなくかわすと、軽く片目をつぶって見せた。
「ネクタイが曲がってたからー」
 へらへらと笑う笑顔に、黒鋼は眉間にしわを寄せる。
「……お前、いい加減にしろ」
「わー、こっわいお顔!」
 しぶしぶ了承した人事ではあったが、少しは期待する気持ちが黒鋼にはあった。凶悪化する事件解決のためにつけられるパートナーが、どんなに腕っ節の強い人物かと思っていたのに、こんなに華奢で軟派な男だったとは。
とにかくー、とファイは語尾を延ばしてのんびりとした口調で言う。
「署長は黒りんにチームワークの大切さをわかって欲しいって言ってたんだよー。耳たこで聞いてると思うけど、オレらの仕事は信頼関係が大事なんだからさ、よろしくね黒りん」
 最後は歌うようにしてそう言うと、黒鋼に背を向け軽やかな足取りで部屋を出て行った。
「……ちっ、先が思いやられる」
今度は心の中でなく、大きく舌打ちをして黒鋼はデスクに伏して頭を抱えた。
と、シャツの胸ポケットから乾いた音が聞こえた。ポケットに手をやると、小さな紙切れが一つ入っていた。取り出してみると、それはファイの名刺だった。空白部分に手書きで何か書いてある。

――オレの名前長いけど覚えてねー

警視庁捜査一課 特命捜査対策室 警部補
ファイ・D・フローライト
「あいつ……」
 ネクタイに、手をかけられた瞬間を思い出す。あの時に、入れられたのだろうか。黒鋼は、ファイが自分の手を振り払ったときの身のこなしを思い出す。
「ふん、おもしれぇ」
ファイがしていたように、自分のデスクの上に座って足を組む。窓の外に目をやると、警察署の駐車場を囲うようにして、数本の葉桜が瑞々しい新緑の葉を初夏の風に揺らしていた。

***

 ファイと黒鋼が一緒に仕事をするようになってから数ヶ月。初夏の爽やかな風は、真夏の草いきれでむっとするものに変わっていた。
「はい、黒様」
 コンビニエンスストアで遅い昼食を調達してきたファイが、運転席に座っている黒鋼にペットボトルのお茶を差し出した。
「おう」
 それを受け取ると、すぐに蓋を開けて口をつける。一気に半分ほど飲んでから、朝から何も口にしていなかったことに気づく。
「いい飲みっぷりだねぇ」
 そういって、ファイは袋からおにぎりを取り出した。
 梅と鮭だったよね、どっち先に食べる? と聞かれて、鮭、と黒鋼は答える。一人で仕事をしていた時は、張り込み中に食事をとるなど考えたこともなかった。一人は気楽だが、何もかも全部一人でするというのは大変なことも多かったのだ。ファイと仕事をするようになってきちんと食事をとるようになったためか、以前に比べて体力が格段にあがったことに黒鋼は気づいていた。案外、二人というのもいいかも知れない、そんな思いが胸に浮かんで黒鋼は心の中で苦笑した。

 その日二人は、犯人とみている人物が住むマンションの斜向かいの駐車場で、覆面パトカーに乗り込んで張り込みをしていた。この特命捜査対策室では、過去の未解決事件の捜査にあたる。殺人事件の時効が撤廃されてから、十数年前の事件でも犯人に結びつく情報があればどんな事件であっても調査に出向く。
「資料は、プリントアウトできたのか」
「うん、ばっちりだよ」
 事前に確認していた今回の事件の資料が、別の事件のものだったと事務の女性から連絡があったのは数十分前のこと。ノートパソコンに正しい資料のファイルが届き、コンビニエンスストアのプリントサービスを使ってファイが早速資料を印刷してきたのだ。
「さて、本当はどんな事件の容疑者だったのかな……?」
 取り出した資料にファイが目を通す。
「えーと、事件発生日時は一九××年五月一日 午後十五時頃 東京都北新宿……」
 読み上げる声が止まる。不思議に思った黒鋼が顔を上げると、ファイは晴れた日の青空のような瞳を見開いて、資料を凝視していた。A 4の、コピー用紙の白が夏の光を反射し、黒鋼の目に眩しい。ファイの青白い指が、紙をぎゅっと掴んだ。
「おい、どうした」
 ふとこちらに顔を向けたが、ファイは感情の見えない表情をしていた。これまでに見たことがないその表情に、黒鋼は思わず息を飲む。
「おい」
 考えるよりも先に、黒鋼の大きな手がファイの細い肩に触れていた。骨から太いその手は、肩に乗せるだけでも軽い衝撃を与える。はっとしてファイは慌てて笑顔を作った。
「ごめんごめん、ちょっと勘違いしちゃった」
「勘違いって……なんなんだ」
 小さく首を横に振ると、金の糸のような髪がきらきらと揺れた。
「なんでもない、ちょっと知ってる人の事件に似てたから。でも違うみたいだ」
 何か言おうと口を開く黒鋼を制止して、ファイが外の変化に何か気づく。
「あ、出てきたよ!」
「よし、追うぞ」
 ステアリングを握り、黒鋼はエンジンをかける。はやる気持ちを抑えてゆっくりと走り出す。
「路地を右に曲がったよ……あ、一方通行のほうだ!」
 予め周囲の道については下調べをしている。もし一方通行の方へ進んだ場合も、回り道をするよう予測は立てていた。
「オレ、降りて追うから!」
 黒鋼の返事を待たずに、ファイは車外へ飛び出し、路地を曲がって行ってしまった。降りて追うなど、計画には入れていない。
「ち……勝手な行動取りやがって……!」
 黒鋼は冷静に、回り道をするためにギアをバックに入れた。

 サイレンは鳴らさず大通りに出ると、少し離れたところでファイが出てくるのを待つ。三分待ったがまだ出てこない。五分経ち、十分が過ぎた。時間が経つにつれ、焦りが黒鋼に迫る。先ほどの道から車道へ出てくるにはそれ程時間はかからないはずだ。もしかして、回り道をしている間に出て来て違う道へ行ってしまったのだろうか。今ここを動くべきか否か、判断をしなければ。
 焦りはいつしか、不安へと形を変えていた。あれほど人目をひく容姿の人間が、尾行をするなど無理があるというのに。
「チームワークが大事だと言ったのはお前だろう   が……」
 じっと待っているのは性に合わない。エンジンを止めて車を降りた。携帯の画面を見るが、着信やメールはなかった。無線も入らない。だが、こちらからは、連絡することができない。万一、連絡を取ったときにファイが犯人に近づいていたら、危険な目にあわせることになるからだ。
「くそっ……!」
 小さく叫び、路地へ入ろうとしたその時、背後で足音がした。振り向くと、ファイが息を切らせて立ち止まっていた。
「ごめん、黒りん、あいつ見失っちゃった」
 荒く息をしながらも、へらへらと笑う笑顔に腹が立つ。
「お前……勝手な行動をするな! 俺がどれだけ   し……!」
 言いかけて、黒鋼は口をつぐむ。心配した、というのか。この、自分が。
「し……? もしかして心配してくれたの黒様?」
 驚いた顔のファイを残して車に乗り込んだ。あわてて、ファイも乗り込んでくる。
「奴の動きは? 俺が見ていない間に何があった!」
 誤魔化すために口調が荒くなる。
「あ……オレが追った後、すぐに別の路地に入ったから、その後をついていったんだけど……」
 あいつ、オレのことに気づいたかもしれない、と自分の唇を親指でなぞりながらファイは氷のような目をした。黒鋼は、黙って次の言葉を待つ。
「まっ 気のせいかもしれないけどねー」
 また空気を変えるようにして、へにゃりと笑う。黒鋼は、口は結んだままじっとファイを見据えた。
 黒鋼の真剣な目に耐えかねたのか、やがて観念したように、ファイが小さな口を開いた。
「……今回の人事、オレが自分で希望して特命捜査対策室へ来たの、知ってる?」
「……ああ、前々から希望を出してたらしいな、署長から聞いた」
「何で希望してたか、聞かないの?」
「言いたきゃ言うだろうし、言わないのは何か理由があるんだろう」
 ファイはふっと息をもらして微笑んだ。作り笑いとは違う、自然な笑顔。黒鋼は一瞬眩しそうな表情をして、目をそらす。
「黒りんってサムライとかニンジャみたいだよね」
「あぁ?」
「なんか、男の中の男って感じ」
 憮然とした顔の黒鋼にまた笑顔を向けて、ファイは話し出した。
 幼い頃に双子の弟を亡くしたこと。そしてそれは殺人事件であること。犯人はまだ捕まっておらず、自分はそのために警官になったことなどをかいつまんで話した。
「……で、今回の犯人がそいつである可能性が高いということか」
「うん。まだ容疑が確定してないからあくまでも可能性だけどね……」
 ファイは資料を指でなぞりながら続ける。
「オレの家系は代々双子は不幸を呼ぶとされてきたから、双子というのは秘密にされていたんだ。だから、ここにはオレの存在は明かされていない。犯人も、オレたちが双子だってことは知らないはずだ。だけど……あの顔、オレを見たとき、何か気づいたような表情をしていた」
 黒鋼はため息をついた。
「お前、自分がどれだけ人目をひくか知ってんのか……」
 気づかれるのも無理はない、と続けて黒鋼は無線を取り出した。
「とにかく、署に連絡を入れておく」
「このことは……」
 さえぎるように黒鋼は続けた。
「わかっている、他言はしない。ただし……俺に隠し事だけはするなよ」
 小さくうなずくと、黒ぴょんありがとー、とファイは笑顔を見せた。

 署に連絡を入れると、今日は一度戻るようにと指示が出た。
 車を走らせる前に黒鋼は、おい、と呼びかけてファイをこちらに向かせる。
「俺が、奴を捕まえる。絶対にな。そして、お前もだ」
 お前も、奴を捕まえろ、絶対に。そう言ってアクセルを踏み込んだ。

***

 こちらの動きを悟ったのか、しばらくは容疑者の行動に目立ったものはなかった。その間にも、黒鋼は何やら外出を重ねて情報収集にあたり、資料室にこもっては目の下を黒くしている。
「ね……黒たん、最近寝てないんじゃないの?」
「んぁ? お前にゃ関係ねぇ」
「関係ないことないよ……ね、黒ぽんお風呂入ってる?」
 ここ最近は家にも帰っていないようだ。
「シャワーは浴びてるぞ」
「とにかく! 署内で泊り込みばっかりしてると疲れがとれないよ。今日はおうち帰ってよ?」
「あー……わかったわかった」
 生返事をする黒鋼をみて、ファイは、はた、と思いつく。
「そうだ! オレ黒ぽんのためにご飯作ってあげるよ!」
 ものすごくいい案だとばかりに瞳を輝かせるファイに、黒鋼はそっけない。
「そんなことより仕事しろ仕事」
「ボスの健康管理も仕事のうちだよ」

***

 結局、ファイが強引に押しかける形で黒鋼は久しぶりに自宅へと戻った。ベッド、テレビ、冷蔵庫など必要最低限の家具や電化製品だけが置かれた殺風景な部屋は、いかにも男の一人暮らしといった風で、色々と買い込んできたファイは部屋を一目みてやっぱりねーとひとりごちた。
「何が、やっぱりなんだ」
「黒さまらしい部屋だなーと思って」
 勝手知ったる他人の家とばかりに、ファイは冷蔵庫をあけて食材を押し込んでいく。簡単に調理器具を確認し、まずはお風呂、とバスタブを洗い、湯をためている間に食事を作る計算だ。
 調理器具もろくに揃っていないキッチンで、ファイは手早く食事を作っていく。野菜を切るトントンという音を聞きながら、黒鋼はファイの華奢な背中を眺め、自分の胸に浮びそうになった何か温かいものを、視線をそらして押しとどめる。
 ほどなくして、「お風呂が沸きました」と電子音が響く。ファイに促され、黒鋼は久しぶりに風呂に入った。洗面器でお湯をすくって頭からばしゃりと湯をかぶる。身体を洗うと勢い良く湯船に浸かった。狭いバスタブでも温かいお湯に身体を沈めると隅々まで血液がめぐって心地良く、思わずため息がもれた。バスタブからあふれ出る湯の音を聞きながら、シャワーだけでは疲れがとれないというのは、あいつの言うとおりだなと考える。
 風呂からあがると、もう食事が出来ていた。ローテーブルに並んだ二人分の夕食は、豚汁と親子丼。根菜がふんだんに入った豚汁は柔らかな湯気を立て、黄金色に半熟卵が輝く親子丼はちょうどいい器がなくラーメン鉢によそわれた。
「はい、黒ぽん! どうぞ召し上がれー」
「……いただきます」
 ぼそりと挨拶をして黒鋼は、親子丼をかき込んだ。出汁がよくきき、鶏肉からは肉汁が旨みとともにあふれ出す。ちょうどいい半熟具合の卵はご飯によくからんで、文句なしに、うまい。
「……うまい」
「よかったー、オレ、料理には自信あるんだよねー」
 それにしても、炊飯器はあるのにお米がないなんて信じられないとファイは口を尖らせた。レトルトのご飯がなければ親子丼を作れないところだったとも。
「一人分の飯炊くのめんどくせぇ」
「一度にたくさん炊いて冷凍しておけばいいのにー」
「そうなのか」
 そうだよ! とファイは憤慨してみせて、次くるときはお米買ってこよーと語尾を弾ませた。黒鋼はぎろりとファイを睨んで、お前、まさかまた来るつもりかと問いかける。
「え? 来ちゃダメなの?」
 なんでダメなのかさっぱりとばかりにファイは肩をすくめてみせる。黒鋼は小さく勝手にしろとつぶやいて、黙々と豚汁をすすった。

 食事が終わり、人心地つくと黒鋼は、ファイが入れたお茶をすすりながら問いかける。
「お前、料理どこで覚えたんだ」
 覚えたってゆうかね、とファイは初夏の風のようにさらりと言う。
「オレ、拾われたんだ、ある人に。ずっとその人と暮らしてて。だから料理は自然と出来るようになった感じかな」
「……そうか」
 黒鋼は何か言いたげにファイを見つめた。その視線に気づくことなく、ファイは青い氷のような目をしてつぶやいた。
「もう、必要ないけれど」

***

 その日ファイが警察署へ出勤すると、デスクの上に茶封筒が置いてあった。几帳面な字でかかれた差出人に見覚えはなく、ファイはペーパーナイフで封を切る。取り出した便箋をしばらく眺めていたファイの手が、小刻みに震えて便箋をぎゅっと握り締めた。その時、誰かが歩いてくる音がして、ファイは便箋を急いでたたむとスーツの内ポケットへ忍ばせた。
「おう、もう来てたのか」
「おはよう、黒様」
 黒鋼はパートナーの顔を見て、顔色が悪いなと眉をひそめる。
「えー、そうかなー? 色白なだけだよー」
 わざとらしく語尾を上げて明るく言い放つと。ちょっと出てくるね、と署を後にした。

 行き先も考えないまま、ファイは東京の街を足早に歩いていた。長身で美しい金髪を揺らしながら歩く様は行き交う人の視線を浴び、本人はそのことにまったく意に介さず考え事をしている。
 手紙の主はおそらく今回の追っている犯人だ。適当な偽名を使ったと見られるが、そんなことよりも内容がファイにダメージを与えていた。
 黒鋼が今件から手を引かなければ、困ったことになるという脅し、そしてこの事件はファイ一人で担当しろといった要求。そういった内容が、一見普通の手紙に見えるが頭文字だけを取るとそう読み取れるように書いてあったのだ。やはり犯人はファイに気がついている。あの時、車から降りて追うなど、迂闊だった。ずっと追い続けていた犯人が、突然目の前に現れて冷静ではいられなかった。気づけば、体が勝手に動いていた。
「困ったね……」
 ひとりごちてファイは、雑踏の中へ姿を消した。

***

「おい」
 資料室から出てきた黒鋼が声をかけると、ファイはデスクに座ったまま何?と声だけで返事をした。このところファイはぼんやりとしていることが多く、黒鋼は苛立ちを隠そうともせず問いかける。
「最近なんだ、ぼんやりしやがって……何かあったのか」
「やだなぁ黒様、オレはいつもこうだよー」
 いつものようにへらへらと笑ってかわす。黒鋼はしばらく黙っていたが、資料室から取り出したファイルをデスクに置き、おもむろに告げた。
「そろそろ、奴の容疑が固まってきたぞ 読んでおけ」
 そしてファイの返事を待たずに、部屋から出て行った。
 ファイはじっと資料を見つめていたが、ゆっくりと手を伸ばして開いてみる。そこには、すでに知っていることばかりが記載されており、特に気になるような情報は載っていない。そう思い、閉じようとした瞬間、ある一文が目に止まった。
「川で殺された少年が、その日なぜ川にいたのかは不明。病気がちで外へ出ることがない少年だったと両親は話している」
 湖をたたえたような瞳が潤み、肩が震える。
「ユゥイ……」

***

 逮捕状を取り、いよいよ明日、逮捕という日。黒鋼はファイを会議室へ呼び出していた。黒鋼が部屋に入ると、窓際の長机の上に足を組んで座っているファイの姿が見えた。いつかもこんな光景を目にしたな、と黒鋼は心の中で苦笑した。
「とうとう明日だね」
「ああ、そうだな」
「で……何? 話って」
 黒鋼は一呼吸置くと、ファイに問いかけた。
「お前、俺に何か隠していることがあるだろう」
 ファイは一瞬瞳を伏せて足を組み替えた。
「……事件のこと?」
「そうだといえばそうだが、違うといえば違う」
 瞬時に頭を巡らせるが、例のことを話すわけにはいかない。適当になにか、告白できるようなことがないか考える。
「オレ、さ……弟を殺したの、親の差し金だと思ってるんだ」
 黒鋼は眉毛をぴくりと動かして身じろいだ。
「不幸を呼ぶ双子……親は表向きにはオレ達を護ってくれたけど、時折感じる冷たい視線は子供心にもわかるものだった。だから、弟が殺されたときにオレは逃げ出した。オレが生き延びてることを世間は知らない。あの時殺されるべきはオレだったのかもしれない……」
 口を真一文字に結んだまま、黒鋼はファイの次の言葉を待つ。
「オレを拾ってくれた人は新しい世界を教えてくれた。でも、その人は死んでしまった。あの人が全てだったんだ、家を出てからのオレにとっては」
 黒鋼は表情を変えない。誤魔化すのは難しいかも知れないとファイは思う。それでも、もう後戻りは出来ない。
「明日犯人逮捕って時にごめんね……でも。君になら、話してもいいと思ったんだ」
 黙って聞いていた黒鋼は、ゆっくりと口を開き、低い声で言った。
「それなら、これは何だ」
 黒鋼がスーツの内ポケットから取り出したのは、犯人からと思われる例の脅しの手紙の封筒。あれから何通か同じ内容の手紙が届き、都度隠していたのに、そのうちの封筒だけ見つかってしまったのだろうか。
「同じ差出人から何通も手紙が届くのはおかしいと思っていた。悪いと思ったが、お前が落としたこの封筒を鑑識に回して指紋を調べたら、犯人のものだった。しかも、すでにお前から指紋鑑定の依頼がされていた。何故、俺に言わなかった」
 ファイが何かしら隠し事をしているのは気づいていた。へらへらと笑う笑顔の向こうに隠し持っている暗い影も、黒鋼は見逃してはいなかった。
 だん、と窓の横の柱にファイを押し付けると、黒鋼は彼の顔の横に手をついた。
「いいか、隠し事はするなと言ったはずだ」
 黒鋼の射るような目に、ファイは表情を変えずに視線だけをそらす。
「相棒なら、パートナーなら、信頼関係が大事だと言ったのはお前の方じゃないのか?」
 信頼関係の崩れが、そのまま生命を危機にさらすことに繋がるからと、それは、もううんざりするほど聞かされてきた事柄だった。
「お前はいつも……心開いている振りをして、どこか隠し事をしている」
 ファイは黙ったまま身じろぎ一つしない。
「俺を、舐めるな」
 黒鋼の、低い声。ファイの細い肩が小刻みに震えた。
「あはははは!」
 突然笑い出すファイを、黒鋼は射るような目でじっと見た。
「殺されたって言っただろ? オレの弟が。オレは復讐のためにこの仕事についたって」
 黒鋼の反応を待たずにファイは続ける。
「あれ 嘘なんだよ」
 ――オレが殺したんだ 弟を――
ファイは笑っているが、目は曇り空を映したような色をしていた。
「双子は不幸を呼ぶとなじられるのに疲れたんだ……大人は、オレ達を子供だと思って目の前でひどいことを平気で言う。悪いことが起こると何でもオレ達のせいにした……天気が悪いのも、誰かが病気になるのも全て」
 子供にだって、人格はあるのにね――
 黒鋼は、眉をひそめてじっとファイの瞳を見る。
「何故、嘘をついた?」
 ファイの左腕をぎり、と締め上げて、顎をつかみ無理やり自分の方に向けた。
「俺は、信頼に値しない人間か?」
 そう言った黒鋼の赤い瞳は怒りに燃えているようで、どこか悲しい色をしている。ファイはやはり、目をあわそうとはしない。投げやりな表情で、片側の口角を軽くあげて呟くように言う。
「そう……だね 君にだけは本当のことを言いたくな かった」
 黒鋼は、しばらく黙ってファイの顔を見ていたが、やがて締め上げていた手の力を抜くと、はき捨てるように言った。
「……勝手にしろ」
 黒鋼の大きな手が、ファイの細い手首から離れ、背を向けると振り返ることなく会議室から去っていく。
「……っ」
 ドアが閉まる音が大きく、空っぽになった会議室に響く。
 しばらく空(くう)を見つめていたファイは、やがてずるずると壁に背をつけたままへたりと床に座り込む。
 黒鋼の目が、ファイは嫌いだ。すべて見透かされているようで、怖い。
「……でも、あの目がオレは……」
 これでいい。黒鋼をこの事件から遠ざけるにはどうすればいいか、ずっと考えてきたがようやくその流れが出来た。これで黒鋼はこの件から身をひいてくれるだろう。信頼できないパートナーが事件に絡んでいたとなれば、愛想を尽かすのは当然だ。事件については再捜査となるだろう。自分はただ、ユゥイを殺すのに直接手を下した犯人を自分の手で殺したいだけ。容疑者が、犯人と事実上確定されたことがわかった今、警官としてする仕事は何も無い。
 自分のせいでユゥイは死んだ。自分があの時、ユゥイに川辺の桜を見に行こうと言わなければ。外に出ることを許されなかった幼い自分にとって、本の世界は唯一の外の世界。夏に咲く桜があるという川辺に自分の足で行ってみたかった。ただそれだけだったのに。
 晴れ渡った空の色を映したファイの瞳は、彼の心情とは裏腹に澄み切って、美しいしずくを一つこぼした。


――前編 了



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