幼馴染黒ファイ/むじこ





 marry me?


「悪い、好きな奴がいるから無理だ」
 そう言うと、名前も年上か年下かも知らない女子生徒は黒鋼の前から逃げる様に立ち去った。
 妙な緊張感から解放され、黒鋼は遠ざかっていく背中を眺めて重い息を吐き出した。
 放課後体育館の裏で、なんて余りにありきたりなシチュエーションが現実離れしていたせいか、六限目の授業を半分寝ていたせいで頭が回っていなかったせいか、剣道部の仲間に言われた「忘れ物を取ってきて欲しい」なんて言葉をあっさり信じて騙された。
 剣道場は体育館の地下に位置していて、走り込みや素振りは道場の広さと部員数の関係で地上へ出ての事が多い。
 素振りをしていて竹刀を忘れたと、その同級生は黒鋼に言ってきた。
 いつもはのんびり稽古に参加するその同級生が今日はやる気を見せ、早くも防具を着け終えていたのでそれならば仕方が無いと外に出た。
 しかしどこをどう探しても木刀の置き忘れなどなく、代わりに居たのが彼女だった。
 呼び止められ、嫌な予感しかせず急いでいると断ったが相手も急いでいた。
 逃げる間も無く「好きです」と伝えられ、伝えられたからには返事をしなければならず先ほどの言葉を伝えた。
 去って行く相手の目からぽろりと涙が流れるのが見えた気がして、自分ではどうしようもないと言い聞かせながらも重苦しい気持ちがじくじくと染みの様に胸に広がっていく。
   全く知らない相手など傷付けたとしても関係ないと言い切れる程ドライでもない。
 かと言って同情で他人と付き合える程お人好しでも馬鹿でもない。
 ただ、女に泣かれるのは苦手だった。
 胸のもやもやは次第に苛々へと変わり、その矛先は全ての元凶である黒鋼を騙した同級生へと向けられた。


「おー黒鋼! どうだった?」
「どうもこうもねぇよ。嵌めやがったな」
 剣道場に戻った黒鋼に対し、興味津々で声をかけてきた同級生を黒鋼は睨み付けた。
 殺意さえ籠ったその視線に事の顛末を察し、同級生はやれやれと肩を竦める。
「あーあ、勿体無い。相手、誰だかわかってんのか?」
「知るか」
「そんなに怒るなって。おまえの為を思ってだな」
「いらん世話だ。次同じ事やったらはっ倒す」
 そう言ってずかずか剣道場へ入っていく黒鋼には必要以上に怒る理由があった。
 彼女を断る理由として挙げた文言は嘘では無く、黒鋼には十年前からこの人と決めている相手がいた。
 最近でこそ口にする事はなくなったが、小学校から中学までは毎日のように公言していたので付き合いの長い友人なら皆それを知っている。
 一緒に過ごしたのはたったの十日間。
 その子と黒鋼との接点はそれだけで、夏休み中の出来事であった為に他の友人達はその子を見た事もない。
 友人達にとって黒鋼が拘り続ける「あの子」は夏休み明け、やけに興奮した黒鋼にあれこれ聞かされたがまるでどこか遠い異国の夢物語の様だった。
 髪が金色で、目が蒼くて、びっくりする程可愛くて優しい子。
 外国人の子どもなんてテレビの中でしか見た事がなかったので、友人達はその子を想像する事も出来なかった。
 しかし黒鋼はその子に恋をし、その子も黒鋼に恋をし、いつか結婚しようと約束までしたのだと聞かされていた。
 もう一度会えるかもわからない相手、しかも約束したのは十年も昔。
 普通ならば綺麗な思い出として記憶の片隅に仕舞われるところだが、黒鋼はそうはいかなかった。
「俺はもう、決めてんだよ」
 そう語る黒鋼に対し、友人達は皆「相手はもう忘れてる」だの「十年も経って、実際会ったら変わってるかも知れない」だの「過去の幻想に捕われている、目の前の女を追え」だの諭す様に言い聞かせたが黒鋼はそれらの意見を頑として聞き入れなかった。
 運命の相手、など恥ずかしい言葉を口に出した事はない。
 けれど黒鋼はそうだと確信していた。


 夏休み、丁度友人達が家族で旅行へ行ってしまい退屈していた黒鋼に、両親が友人の子どもを預かる事になったと紹介してきたのが黒鋼の想い人となるその子だった。
 くるくると癖のある金色の髪に、大きくてちょっと眠たそうな蒼い瞳。
 夏なのに日焼けもせず真っ白な肌はお人形の様で、その子がぺこりと頭を下げた時、こんなに可愛い女の子がこの世界に居るのだという事に黒鋼は衝撃を受けた。
 学校で一番可愛いと言われている子だって、その子には勝てる気がしなかった。
 その子は日本語がわからなかったけれど幼い二人は直ぐに仲良くなり、手振り見振りを交えて交流をした。
 暑いのが苦手というその子が部屋に籠りがちになるのを心配し、黒鋼は近所の神社へその子と一緒に行き、木陰で本を読んだりお絵かきをしたりした。
 黒鋼は絵が苦手で自分が描くのはつまらなかったけれど、その子がクレヨンを握るとスケッチブックがまるで絵本みたいに賑やかに彩られるのを見るのが好きだった。
 反対にその子は黒鋼が描いた黒鋼から見れば拙いとも思える絵が大好きで、わからない英語で大絶賛してくれた。
 その子は穏やかで良く笑った。
 黒鋼はわからないなりに英語を使う……なんて事は一切せず日本語で喋り続けたので、その子は黒鋼の言葉を必死で真似ていた。
 『黒鋼』が言いにくいのか「クロ」と言い、舌をもつれさせながらたどたどしく喋る様子はとても愛らしかった。
 その子は可愛いだけでなく、優しかった。
 近所に「ジョン」という大きくて真っ黒な犬が居たが、誰に対しても吠えるその犬が唯一吠えないのがその子だった。
 その子がよしよしとジョンを撫でると、ジョンはまるで子犬の様にその子に擦り寄った。
 黒鋼はそれを見て驚き、自分もと試すとジョンは歯を剥き出しうなり声をあげた。
 何となくジョンに腹が立ち、それから黒鋼はジョンをライバル視する様になった。
 黒鋼が蝉を捕まえてカゴに入れていると、その子はそれを逃してしまった。
 一緒に蝉を捕りに行ってもその子は怖がって触りもしなかったくせに、何で逃してしまったのかと問い詰めればその子は寂しそうな顔を黒鋼に向け、ゆっくり首を振った。
  何を思っているのかその時の黒鋼にはわからなかったけれど、狭いカゴに閉じ込められて可哀相だと思ったんだろうなと黒鋼は理解した。
 おやつを分け合った。
 寝床も分け合った。
 二人は常に一緒だった。
 黒鋼はどんどん、その子の事が好きになっていった。
 そして運命の日、親戚の結婚式に黒鋼一家はファイも連れて参列した。
 真っ白な教会でウエディングドレスを着ているお嫁さんがとても綺麗で、黒鋼は隣に並んでいたその子とこんな風になりたいと思い、その子の手をぎゅっと握った。
「いつか、俺のお嫁さんになってくれ」
 堂々とした求婚は、残念ながらその子に意味を伝えられなかった。
 ふにゃりとその子が首を傾げたので、黒鋼は指輪の交換をする二人を指差し、次に自分とその子を指差した。
 その子は目をまん丸にして、酷く驚いた顔をした。
 そしてくすくす笑いだした。
 本気で告白されたのに笑われて、黒鋼は恥ずかしいやら悔しいやらでちょっぴり泣きそうになってそっぽを向くと、その子は慌てて黒鋼の袖を引いた。
 そしてふるふる首を振り、それから大きく頷いた。
 先ほどまでの笑顔は引っ込み、真剣な顔でその子は。
「クロ……Will you marry me?」
 そう言った。
 黒鋼はその子が何と言ったかはわからなかったけれど、きっと自分と結婚するのかと聞いているのだと思い、大きく頷いた。
 その子は少しだけ困った顔をして、それからにっこりと微笑んだ。
 ぎゅっと腕にしがみついてきたその子に、黒鋼は絶対にこの子と結婚するんだと心に誓った。
 それから数日後、その子が国へ帰る事になったと聞いた時、黒鋼は本当にショックを受けた。
 もっとここに居たらいい、むしろずっと居たらいいと両親に訴えたけれど、二人は困った顔をするだけでもう決まった事だからと黒鋼を諭した。
 子どもだった黒鋼は自分が我が儘を言っていると知っていながらどうしても納得がいかず、その子が遂に旅立つ日は朝から部屋に閉じこもってしまった。
 その子を見送る時に嫌な顔をしたくなかったし、手を振ってさようならをする瞬間は泣いてしまいそうだったから。
 布団を頭からかぶって寝たフリをして、毛布の中に目覚まし時計を持ち込み刻まれていく一分一秒を呪い続けて居ると、家を出る数分前になってその子が黒鋼の部屋をノックした。
 その音だけで泣いてしまいそうで黒鋼は耳を塞いで無視していたけれど、ノックの音は止まなかった。
 扉を叩く音は、時計の針が進むのに合わせてどんどん強くなっていった。
 あんまりしつこいので五月蠅いと言おうとして布団から頭を出すと、クロ、クロと呼ぶ声が聞こえた。
 聞いた事がない程切ない声にどきりとして、恐る恐る扉を開けるとその子が泣いていた。
 大粒の涙をぼろぼろとこぼして食いしばり、小さな手をぎゅっと握りしめていた。
 別れが辛いのは自分だけじゃなかった。
 そう思うと我が儘を言った自分が本当に子どもみたいで、打ちのめされるような気持ちになった。
 涙に濡れてびしょびしょになったその子のほっぺたをぐいぐい拭ってやり、黒鋼は胸を張りその子の両肩を両手でしっかりと捕まえた。
 もう二度とこの子を泣かせたりするものかと、黒鋼はそう心に誓った。
「絶対また会おう。それで、次に会ったら絶対結婚しよう」
 そう伝えたが、勿論その子に言葉の意味はわからない筈だった。
 なのにその子は黒鋼を見上げ、涙を堪えて微笑んだ。
 そしてこくりと頷いた。
 当時小学生と思えば随分マセていたと自分でも思うのだが、結婚式を見た後だったからというのも大きかったのだろう。
 二人は自分達が見た景色を真似する様に、誓いのキスをした。
 黒鋼にとって最初で、そして今の所最後のキスだった。
 その子を見送った後、黒鋼は両親に「俺はあの子と結婚する」と断言した。
 最初目を丸くしていたが、父親も母親も黒鋼を応援すると言ってくれた。
 特に父親なんかは「男に二言はないな!」と言い、あの子に相応しい男になるようにと説教までした。
 後に聞いた話だが、その子は両親が亡くなったばかりで親戚に引き取られる間だけ黒鋼家に預けられていたらしい。
 それならこの家で受け入れては駄目だったのかと黒鋼は口を尖らせたが、今ならわかる大人の事情というやつが背後にはあった。
 資産家だったファイの両親が遺した遺産の相続や親権の問題などで親戚同士が揉めていたらしい。
 そこへ友人というだけで黒鋼の両親が名乗りを上げたところで話がこじれるだけだ。
 貰い手がないのなら喜んで引き受けただろうが、引く手数多だったのだ。
 その中にその子の事を本当に思いやる人間も勿論居る。
 辛いが、そこは「他所の家の事情」だった。
 黒鋼の両親に出来た事は、その大人の事情をその子本人の耳に入れない様、気持ちを切り替える為にと理由をつけてほんの少しの間預かる事だけだった。
 美化も何もなく、それが十年前の全ての記憶だった。
 笑うなら笑え。
 黒鋼はそう言って、胴着に袖を通した。


 その日の稽古は夕方遅くまで続き、帰りは夜になった。
 これもいつも通りの事、黒鋼は腹を空かせて家路を急いだが、帰った我が家はいつもと違った。
 ごく平均的なご家庭の庭付き一戸建ての門扉をくぐるといつもはすぐに母親がおかえりと声をかけてくるのだが、忙しいのか黒鋼がその声を聞く事はなかった。
 玄関には母のものよりは大きく、自分や父のものと比べると小さな革靴が一足、綺麗に揃えて置かれている。
 誰か来ているのかと台所をスルーして客間を覗くと、畳に足の低いテーブルが置かれた古風な部屋には父親と、その対面に誰かが座っていた。
 背中からなので顔は見えなかったが、黒鋼は食い入る様にその後ろ頭を見た。
 肩の辺りで切り揃えられた、癖のある金の髪。
 振り返ればきっと、蒼い瞳が……。
「お、帰ったか」
 黒鋼を発見し、父が声をかけるとその人物はくるりと黒鋼の方へ振り返った。
 そしてがっちりと、目が合った。
「あー……クロ! クロでしょ!? 久し振りー元気だった? うわあ、うわあ、大きくなったねー凄いねー!!」
 飛び上がる勢いでその「少年」は黒鋼に抱きついた。
「……………は?」
 黒鋼は目が点になった。
 鳩が豆鉄砲を食らった様な、狐につままれたような、そんな気持ちで愛しの彼女……そっくりの少年を見下ろした。
「もしかして忘れちゃった? まあ十年も前の事だから仕方ないよねー。オレ、ファイ。むかーしちょっとだけお世話になったんだよ」
 自己紹介をした彼が黒鋼の腕をぱっと離し、ぺこりとお辞儀した。
 そのぺっこりお辞儀をする所作も笑い方も、ふわふわ揺れる髪もとろんと眠そうな蒼い瞳も全て記憶の通りだった。
 流暢になった日本語と――男だという事を除けば。
 パッと見華奢で女性に見えなくもないが、薄手のパーカーにジーンズを履いたその胸は見事な平、平ら。
 小さいのではない。
 無いのである。
 腰のくびれもなく、なで肩で幅のない肩も女性にしては張っている。
 ぐわんぐわんと目が回る様な衝撃に、黒鋼は十年ごしの再会だというのに声も出なかった。
 父の方をぎぎぎ……と見れば、何やらにやにや笑っている。
「ちょっと……風呂入ってくる」
「あ、そう? いってらっしゃーい。お背中流そうか?」
「いい!!」
「ジョウダンじゃーん」
 ころころ笑うファイに見送られ、黒鋼は風呂場へ向った。
 空腹も吹き飛び、混乱した頭に物凄い勢いで水をぶっかけ必死で冷静になろうとした。
 父も母も、よくよく思い返せばあの子を紹介した時わざわざ男の子だとか女の子だとか言わなかった気がする。
 勝手に勘違いしたのはこちらの責だが、結婚すると言い出した息子に対して父は「男に二言はないな」以外に言う事はなかったのだろうか。
 そもそも、ファイも自分が女だと勘違いされていると気付いただろうに、なぜそこを否定しなかったのか。
 ――いや、否定する言葉を持ち合わせていなかったにしても、結婚しようと言い出した時、もう少し違う反応を……と思い出せば最初ファイは驚いて、そして笑っていた。
 しかしその後は受け入れる様な態度を見せ、更には別れ際、子ども同士のままごとだったとは言え男同士でキスなど。
「うがああああああ!!!!」
 黒鋼は叫び、少々頭皮が痛くなる程激しく頭を洗い始めた。
 ぐるぐる考えれば考えるほど、あまりの恥ずかしさに顔が熱くなる。
 十年前の、子どもの頃の過ちだ。
 勘違いだ。
 あちらも忘れているだろう、いや、覚えていたとしても気にも留めていないだろう。
「いや、しかし……」
 いきなりのハグ、馴れ馴れしいを通り越したスキンシップ。
 頭を洗う手が一瞬止まる、がしかし黒鋼はぶんぶんと首を振る。
 相手は外国人なのだ。
 スキンシップ過多の国からやって来たのだ。
 キスだって挨拶の様なものなのだ。
 そうなのだ。
 湯で泡を流し、湯船に浸かると黒鋼は目を閉じて過去の思い出を引っ張り出した。
 ふわんふわんとハートの先に見えるその子は、そういえばいつも短いズボンを履いていた。
 良く似合っていたし疑いもしなかったので今まで何も思わなかったけれど、結婚式の時ですらドレスでなくズボンだったのだ。
 どうして今まで気付かなかったのか、思い込みとは恐ろしい。
「……十年、か」
 あの優しく可愛らしく、少し儚い少女は黒鋼の記憶の中だけの存在になってしまった。
 突然消えてしまった想い人は、元々この世に存在しなかった。
 サンタクロースを信じていた子どもがその正体を知ってしまった時のような気持ちに襲われながら、黒鋼は呆然と湯に浸かり、そして沈んでいった。
 逆上せかけて風呂からあがると、廊下には大きな笑い声が響いていた。
 客間を覗けば食事の支度を終えた母も加わり、低いテーブルには料理がずらりと並び父とファイが酒を飲んでいる。
「……おい、未成年」
 黒鋼がファイの手からグラスを取り上げると、ファイはきょとんと目を丸くした。
 その驚いた顔がもう居ない彼女と余りに違いがなく、黒鋼の胸がズキリと痛む。
「大丈夫だよ、これワインだもん」
「阿保か!! ワインも酒だろうが。親父!!」
「おいおい息子。つまらん事言うなよ、せっかくの宴だぞ」
「まあまあおじさん。黒わんも固いこと言わないの〜」
 そう言ってけらけら笑うファイにいちいち彼女の面影を感じ、黒鋼はぐっと言葉を詰まらせ……。
「おいちょっと待て黒わんって何だ」
「えー? だってさークロってジョンに似てるんだもん。黒くて大きくてさー可愛いわんわんだったよね。ジョン元気?」
「元気って……あれから十年経ってんだぞ。もう居ねえよ」
 言った後で黒鋼は自分が発した言葉に後悔した。
 ファイが「え」と言ったまま一瞬固まり、その瞳の蒼が大きく揺れた。
 泣くかもしれないと思ったが、ファイはそこで持ち直した。
 そっかー、そうだよねと困った顔をして笑い、黒鋼から奪い返したグラスに口を付ける。
 迂闊だった。
 十年は長いけれど、彼にとっては遠い場所での十年だった。
 そしてあの子は動物が好きだった。


 それから黒鋼はファイが日本の高校に通う事になり、暫く黒鋼の家に身を寄せる事になったという事を両親とファイから代わる代わる説明された。
 突然の事に色々と驚きだったが、どうやら父親と母親は前々からファイが来る事を知っていて、知った上で黒鋼がどう反応するかをちょっぴり楽しみにしていたらしい。
 悪趣味な、男の純情を踏みにじりやがってと恨みを込めて父親を睨み付けたが、ファイの手前もあり文句は言わなかった。
 ファイを女と勘違いし、あれから十年間密かに想い続けていたなど両親の口から飛び出ようものなら恥ずかしさで悶死出来る自信がある。
 全てを無かった事にしたかった。
 酒が進んだ父の口からボロが出てしまわない内に食事を終えて自室に戻ると、黒鋼はベッドへ直行した。
 何しろ十年間想い続けていた恋が特殊な形で破局となったのだ。
 それなりにショックだし、今居るファイにどう接していいかもわからない。
 彼女以外はありえないと思っていたし、今でも記憶を辿り、優しい笑顔を思い出せば気持ちがふわりと温かくなる。
 居もしない相手に、黒鋼はまだ恋をしている。
 コンコンとノックの音がして、黒鋼は目を閉じた。
 父親なら断りもなく扉を開くし母親ならいつも一声かけてくる。
 ならば相手はファイだ、今「彼」と話をしたい気分ではなく寝たフリをする。
「……クロ?」
 小さな声が聞こえ、黒鋼は耳を塞いだ。
 まるであの時の、最後の別れの時を思い出させるようで辛い。
 ノックの音が鳴り止まない。
「……なんだよ、うるせえな」
 このままだとファイが泣いてしまう、そんな気がして黒鋼が扉を開くと寝間着姿のファイが居た。
 薄いブルーの浴衣は両親が用意したのだろう。
 ひょろりと細長い体に着慣れていない浴衣が不格好で、黒鋼は無言で襟元を正してやった。
 十年前は食も細く暑さに弱かったけれど、今もそうなんだろうかと心配になる。
 襟元から手が離れると、ファイはありがとうと微笑んだ。
「何か用か?」
「ちょっとお話しないー? 十年ぶりだしさ」
 と言いながら部屋に入ろうとしたファイを、黒鋼は扉を少し閉める事で入れない様にした。
「明日朝練で早いんだよ」
「あ、ケンドウやってるんだって? 試合とかあるなら観に行きたいなー」
「試合はまだ先で、暫くねぇよ」
「えーだったらいいじゃーん! 明日稽古はお休みしちゃいなよー」
「んな事出来るか! 俺はもう寝る」
「ちょっとだけでいいからさー」
 扉を開こうとするファイとそれを体で阻む黒鋼。
 扉の前で二人は押し合いになるが、ファイは驚く程へなちょこだった。
 一度わざと大きく開いてやり、油断したところひっ捕まえて猫の子のように廊下にぽいと放り出すと、黒鋼は扉を顔が覗く程まで閉めてしまう。
「明日早いっつってんだろ!」
「むー……クロ、昔の方が優しかったー。前と全然ちがうー」
 暗に女だと思っていたから優しかったのだろうと言われている様で、黒鋼はびくりと肩を震わせた。
 確かに昔の事を思えばファイがこの家に来てからというもの、黒鋼はかなりファイに対してつっけんどんな態度を取っている。
 ファイが「十年前の級友」に再会した気分でいたのならば……勘違いしていたのは黒鋼なのだ、ファイには何の罪もない。
 責められている様な気がするのは、黒鋼に罪悪感があるからだ。
「……少しだけだぞ」
 そう言うと、ファイはわあいと両手をあげて喜び黒鋼の部屋に飛び込んだ。
 十二畳と大きめの個室はフローリングがひかれ、ベッドが置かれている。
 過去に彼が来てから一度は模様替えをしたけれど、使っている家具なんかはそのままに残っていた。
「わー、懐かしいね。こんなに狭かったっけ?」
「そんだけでかくなったって事だろ。俺もおまえも」
「そっかー……あ、この図鑑」
 ベッドと机、本棚に囲まれた部屋をぐるぐる回遊していたファイが、本棚で足を止めた。
 細い指が、角が折れ色褪せた「生き物図鑑」の背中に触れる。
「あんまあれこれ触るなよ」
「何ー? エロ本でも置いてある?」
「阿保か!!」
「怪しーなー」
「うっせ」
 見られたくないのはエロ本ではなく、ファイとの思い出が詰まったアルバムだった。
 アルバムとは言っても十日間の事だから撮った写真の量は多くはない。
 黒鋼は写真を現像した時店がつけてくれた紙製の薄いアルバムにそれらを入れて、ファイが描いた絵もちゃんと挟んで一緒に保存していた。
 何度も何度も飽きる事なく見直した、それは黒鋼にとって大事な宝物だった。
 昨日までは。
「変な黒ぽん」
 そう言ってファイがベッドに腰掛け、笑った。
 今度は黒ぽんかと突っ込みたかったが、ジョンの事があるので黒鋼は黙ったまま隣に座った。
 黒わんと言わなくなった時点で、ファイのジョンに対しての想いが汲み取れる。
 黒鋼はそこまで鈍感でもないし、ファイも気持ちを隠す事が上手でもなかった。
 二人はやっと落ち着いて、十年ぶりの再会を果たした。
 柔らかい笑みを浮かべたままのファイと目が合うと、黒鋼は言葉が出なくなった。
 瞳の蒼に吸い込まれそうで、ただただ息を呑む。
 沈黙を打ち破ったのはファイだった。
「元気にしてた?」
「……俺はな。おまえは」
「元気だったよー概ね」
「概ね、かよ。昔っから貧弱だったからな、おまえ」
「うわ、黒ぽんオレの事そんな風に思ってたの?」
 ファイがへへ、と笑った。
 それが何かを誤魔化す様な笑いである事に気付いて、黒鋼は眉を顰めた。
 深く関わってはいけない、そう理性が警鐘を鳴らしていたが黒鋼の言葉を待っているファイが微笑んだまま俯いている事や、その儚い笑顔があんまりにも記憶のままである事がストッパーを振り切った。
「何か、あったか?」
 言葉は選んだつもりだったが、まんまになった。
 ぱっと顔を上げたファイが一瞬縋る様な表情をして、それから首を振って小さく笑う。
「ううんー。懐かしいなって。オレね、国に戻ってからもこの家の事が忘れられなくて、日本語の勉強とか色々頑張ったんだよ」
「そうか。すげぇな」
「両親が死んだばっかだったからさ、落ち込んでた時におじさんもおばさんも、黒ぽんもすっごく優しかったから……嬉しかったんだ」
「そ、うか」
 ファイの言葉に黒鋼はいちいち動揺し、逃げる様に視線を逸らした為に会話が途切れてしまった。
 本当は言いたい事も聞きたい事も沢山あった。
 暑いのはもう平気なのか、神社は覚えているか、あそこは木陰に入ると風が涼しくて気持ちが良かったな、結婚式の事は覚えているか、俺は全部覚えている。
 沈黙が続く気まずい雰囲気に、ファイはまたえへへと笑った。
「黒たんは大人になったねー。オレの記憶にあるのは小さい小さい黒たんだよ」
「おまえも相当でかくなったろ」
「そうだね、大きくなったねぇ……」
 ファイが立ち上がり、黒鋼はそれを目で追った。
「今日はありがとう。じゃあ、お休み」
「……おい」
 立ち去るファイの背中が小さく丸まっていて、このまま行かせてはいけない気がした。
 黒鋼は本棚から例のアルバムを取り出し、立ち止まったファイに差し出した。
 色褪せ、黄ばんだ表紙のそれを受け取り、ファイは首を傾げていたが中を開いてあ、と声をあげた。
 子どもの頃の二人がそこに写っている。
「これ、懐かしい。オレと、黒ぽんと……おじさんとおばさん」
 ファイが目を細め、懐かしそうに指で写真をなぞった。
 玄関先で両親と黒鋼、そしてファイの四人で撮った記念写真は大きく引き伸ばしてある。
「持ってけよ」
「え、でも」
「データは残ってるから幾らでも焼き増し出来るし……俺は随分眺めたから、もう全部ここに入ってる」
 そう言って黒鋼が自分の頭を指差してみせると、ファイがうふふと笑った。
 アルバムを抱き締め、肩をちょっと竦めて髪を揺らすファイが、また「あの子」とダブる。
 けれどもう黒鋼の胸は痛まなかった。
 ファイを笑わせる事が出来て良かったと、ほっとする。
「じゃあ、ちょっと借りるね」
「ああ、お休み」
「お休み。――ねえ黒たん」
「何だ?」
 扉に手をかけ廊下へ出かかったファイは、その足を止めて振り返った。
 廊下まで見送ろうと思っていた黒鋼は、突然立ち止まったファイにぶつかりそうになるのを堪え、一歩引いた。
「黒たんって、十年前さ。オレの事やっぱ……女の子だと思ってた?」
「お?」
 と言ったまま、黒鋼は固まった。
 ファイはそんな黒鋼を見上げ、バツが悪そうに笑った。
「そりゃそうだよねー。オレ良く間違えられてたんだー。母さんに似てるって、おばさんもオレの事エルダさんにそっくりね〜なんて言ってたし、ていうか今も言われるし……」
「そうだな……間違えてた」
「まちがえてた」
 ファイは黒鋼を見上げ、噛みしめる様に反芻した。
「勘違いしてた。悪かった」
「やーっぱりー?」
 ファイがけらけら笑いだした。
 笑う度に肩と髪が揺れ、黒鋼はそれを黙って眺めていた。
「いやーそうだろうなと思ってたけど、うん。そうだねー、うん」
 うん、うん、と何度も頷いて、ファイは顔をあげてにっこり笑った。
「明日早いんだったっけ?」
「ん、あ? あぁ」
「ごめんねー」
「いや、俺も……気分悪かったろ?」
「何が?」
 くてん、と首を傾げたファイに、黒鋼は言葉を失った。
 女と間違えられて気分がいい男なんていないだろう。
 被害者はむしろファイの方で、その事にがっかりして態度が悪いなど的外れもいいところだ。
 だというのにファイはこうして部屋に尋ねてきて、十年ぶりの再会を喜んでくれた。
 黒鋼は自分の身勝手な行動を心底後悔し、反省した。
「じゃあお休み。飛行機疲れちゃったし、オレも眠いや」
「あぁ、お休み。本当に、悪い」
「も−、いいってば! お休み」
 手を振ってファイが去り、扉を閉めて大きな溜息を吐くと黒鋼はごろんとベッドに転がった。
 この十年、生き甲斐と言っても過言では無い大事な想いが、煙の様にふわっと消えてしまった。
 そして残ったのは、あまりに幼い頃の面影を残したまま成長した友人だった。
 心根が優しいところも泣き虫なところも、どこか遠慮がちで寂しそうな笑顔も、見れば見る程懐かしさと愛しさが甦ってくる。
 毎日毎日、あの子と一緒になる日を想像していた。
 お互い大人になって、もう一度出会って、そしたらあの時親戚が着ていたドレスをファイが着て、黒鋼はその隣に並んで。
 何の疑いもなくそんな未来がいつか来ると信じていたのに、目を閉じればファイは男性でドレスではなくタキシードを着ている。
 ならばドレスは何処へ……と思えば、ファイの隣に並ぶえらく筋肉質な白い塊が。
「うがああああああ!!!!」
 ベッドから飛び起き、黒鋼は白昼夢に頭を壁に打ち付けた。


「おー黒鋼、おはよー」
「……おう」
「どうした? 失恋でもしたか?」
「うるせぇ黙れこん畜生」
 チッと聞こえる大きさで打った舌打ちに、同級生は黒鋼の殺気を感じて三歩退いた。
 的外れな事ばかり仕掛けてくるくせに、こんな時だけ妙に鋭いのが忌々しい。
 黒鋼は結局あれから一睡も出来ず、今日はどうにも調子が狂っていた。
 朝練が始まると袴の紐を結び間違え、垂れを付ける前に胴を付け、面タオルを着ける前に面をかぶった。
 準備の段階からそんな状態でもたつき、素振りが始まると「止め」の合図が聞こえず振り続け、試合が始まれば手加減を忘れ相手を真っ二つにする勢いで面を打ち込んだ。
 これは今朝黒鋼に失言をした相手なので無意識下に殺意が働いた為かとも思われるが、面を打たれ倒れた相手が暫く起き上がって来なかった時は流石に焦った。
 授業が始まれば教師の言葉が頭に入らず終始上の空で何度も注意され、終いには体調不良を心配され保健室へ行く様促される。
 普段の行いが良ければこんな時恩恵に預かれる。
 何もする気になれなかった黒鋼は素直に教師の言葉に従って保健室へ向い、昨晩の睡眠不足を補う為ベッドで横になり目を閉じた。
 この半日、黒鋼の頭の中を占めていたのはファイの事だった。
 女だと間違えられているとわかっていながらプロポーズを受けたのはまだ子どもの頃の話で、友情のほんの少し行きすぎた形であったとしてそれをどう消化していたのか。
 勘違いした友人を拒絶しなかったのは、異国の地で仲良くなった友人を傷付けたくなかったのか。
 優しかった彼女……彼の事を思えばその選択もあり得る事だった。
 振り回したのはこちらの方だった。
 久々の再会であんな態度を取られ、多少なりとも傷付いた事も考えられる。
 謝りはしたが、ファイがこの十年の事をどう消化してきたのか考えると、どうにももやもやした。
 今日は帰ったらもう少し普通に接しよう。
 昨日言えなかった懐かしい思い出をちゃんと語り合い、親友としての新しい関係を築いていこう。
 そう決めると黒鋼は溜息を吐き、夢も見ず眠りについた。
 放課後、こんな事ではいかんと頭を切り換え黒鋼は剣道部へ顔を出した。
 いつも通りのメニューをこなし、運動して汗を流せば徐々にいつもの調子に戻っていった。
 朝の不調も忘れ、ファイの事も一時忘れ、黒鋼は稽古に没頭した。
「クロ」
 部活を終え、剣道部の仲間とファーストフード店を目指すべく校舎を出ると、校門の辺りでファイの声を聞いた。
 見知った金髪を探したが見当たらず、代わりに見た事もないセーラー服を着た、黒い三つ編みの少女が立っていた。
「クロ」
 その少女が聞いた事のある声で名前を呼び、黒鋼の時が止まった。
 少しはにかんだ笑顔で黒髪の少女は黒鋼に駆け寄った。
 そして黒鋼を見上げ、ことんと首を傾げた。
「ケンドウ、終った?」
 黒鋼はどっと背中に汗をかいた。
 目の前のどこからどう見ても少女から、ファイの声がする。
 どこから仕入れたのか黒髪のカツラに黒色のカラーコンタクト、紺色のセーラー服は膝丈で細く長い足には黒のハイソックスにローファー。
 胸元の大きな、そして真っ赤なリボンが風になびく。
 疑ってかからなければわからない程、違和感は感じられなかった。
 友人達はファイを見て、黒鋼を見た。
「黒鋼、この子もしかして例の」
「悪い。今日は先に帰る」
「は? おい黒鋼!」
 黒鋼はファイの手を掴み、猛スピードで走り出した。
 その背中に友人達の声がかけられたが振り返りもせず、一目散に逃げた。
 それから暫く走り、途中ファイの息がぜいぜいと大きく乱れ始めたのに気付いて立ち止まる。
 手は掴んだまま少し早歩きに変更し、黒鋼は人気が少ない団地の裏手へとファイを連れて行く。
 辺りに誰も居なくなった事を確認すると、ファイを振り返り思い切り息を吸った。
「何やってんだおまえ!!!」
 怒鳴りつけると、ファイがぎゅっと目を閉じて肩を竦めた。
 一見女装とわからない出来映えには驚くのだが、問題はそんな事ではなかった。
「いやあ、お友達にもばれなかったね〜オレもまだまだ」
「巫山戯んなよ、馬鹿にしてんのか」
 強めの言葉にファイが一度黒鋼を見上げ、赤い目が自分を睨み付け本当に怒っている事を察すると、ファイは俯き黙った。
「……ごめん」
 ファイがしゅんと小さくなってしまっても、それが可哀相だと思いながらも今だけはフォローのしようがない。
 どういうつもりでこんな事をしでかしたのか、聞いた方がいいだろうが聞きたくもなかった。
 悪ふざけにしてはタチが悪い。
 女性だと勘違いしていたという言葉への当てつけかと思うと腸が煮えくり返った。
 それこそぶん殴ってやりたい程の怒りだったが、それを躊躇わせたのは「彼女の面影」で、その事にも悔しさが溢れてくる。
「帰るぞ」
「お友達のところに、行かなくていいの?」
 妙なところで気を使うファイに、黒鋼は驚きを通り越して呆れた。
 今あの友人達の元へ行ったところであの子は誰だと質問攻めに遭うに決まっている。
 あの連中は黒鋼がずっと想いを寄せている相手がいる事を知っているし、当然それに関連づけて話をしてくるだろう。
 傷口に塩を塗り込まれる様なものだ、冗談じゃない。
「行かん」
 そう言うと、黒鋼は先を歩き出した。
 ファイがその後を黙って付いていく。
 言い訳も何も言わないファイに、黒鋼は八つ当たり的に苛ついた。
 日本に来たばかりのファイがカツラや制服を仕入れるなんて不可能だ。
 ならば協力者が必ず居る筈で、それは母親だったり父親だったりするだろうけれど、あんまりだと思う。
 こちらは本気で恋をしていて、例えそれが傍から見れば勘違いで馬鹿みたいでも、黒鋼にとっては十年かけて守ってきた想いだった。
「あ」
 とファイが小さな声をあげて立ち止まった。
 黒鋼が振り返るとファイの視線の先には二人で遊んだ神社の、跡地があった。
 元々管理している人間ももう居ない様な、古くボロボロの神社だった。
 人の目が遮られる高い木も人気の少ない境内も、治安の為にという理由で取り壊しになったのは何時の事だったか。
 小さな社だけが残され、周りの木は切り倒されてビルが建った。
 ファイは呆然と、こぢんまりと収められた社を眺めていた。
 喉が震え、微かな息が漏れたとき、黒鋼はファイの手を取り歩き出した。
「……クロ?」
 ファイの声に、黒鋼は振り返る事も出来なかった。
 まだ怒りはあってファイを許せる事は出来ない、けれど目の前でファイが泣くのは耐えられなかった。
 どれだけ腹が立っても、二度と泣かせないと誓った思いはそれほど強かった。
「ごめんね」
 本当に小さな声で謝罪が聞こえ、それから家に帰るまで会話は一切なくなった。


「オレね、ここ出て行く事にしたー」
 食事と風呂が終った後、昨晩の様に部屋にやってきたファイは開口一番そう言った。
 無視しようと思っていた黒鋼は「宿題がある」と言って広げたノートをパタリと閉じ、部屋の前で立っていたファイを部屋に引き入れ、昨日と同じようにベッドに座らせる。
 自分は床に、向かい合わせる様にどかりと座った。
「俺が今日、怒鳴ったからか」
「そうじゃなくってー。元々オレ、日本では一人暮らししようと思ってたんだよ。だけどこっち来ますーっておじさんに連絡したら、じゃあ家に住めばいいじゃないって話になってさ、甘えてたんだよね」
「おまえ、この家が忘れられなくて日本語勉強したっつってたろうが」
 黒鋼がつつくと、ファイは「あ」という顔を一瞬したが直ぐに微笑んだ。
「黒りん記憶力いいねー」
「茶化すな」
「……まあ、そんな訳だから」
 立ち上がりかけたファイの肩を掴み、ベッドに再び座らせると黒鋼はファイを見下ろした。
 出て行くならそれで清清するではないかとも思う。
 けれど、結局のところ肝心な事は聞けていないし言ってもいない。
 このまま全てが有耶無耶になるのは耐えられなかった。
「俺は、おまえの事を本気で好きだったよ」
 言わないのならこちらが先にぶちまけてしまおう、これが最後かもしれないのなら尚更で、黒鋼は十年間温めてきたものをひっくり返した。
「おまえと結婚してぇと思ったのも本気だったし、ガキの戯言でも何でもなかった。あれから他の奴を好きになる事なんかなかたし、大人になったら金貯めておまえんとこ行こうと思ってた」
 ファイが黒鋼を見上げた。
 いつもはとろんとしている瞳が、大きく見開かれ揺れている。
「十年間、本当におまえの事ばっか考えてた」
「……でも、勘違いだったんでしょ?」
「だから、おまえ見た時は本当に頭ン中真っ白になって、変な態度取っちまった。アホな話だが、勝手に間違えて勝手に失恋したと思い込んで、勝手にショック受けてたんだ。悪い」
「……謝らないでよ」
「俺は俺の都合ばっかり考えて、おまえは気ぃ使って部屋を尋ねてきたりコミュニケーション取ろうとしてくれてたのにな。だけど、俺も本気だった分、今日おまえがやった事はどうしても許せなかっ」
「ぜんっぜん的外れなんだよ! 馬鹿!!」
 突然ファイが怒鳴り、驚く程へなちょこのパンチが黒鋼の顔面に叩き込まれた。
 思ったより固い頬骨に声なき悲鳴をあげてファイは伸び上がり、床に蹲る。
 黒鋼は肉体的ダメージよりも疑問と驚きの方に衝撃を受け、拳を天に翳して床に額を擦り付けるファイの背中を撫でるか撫でないかで手のやり場なく狼狽えた。
「だ、大丈夫か」
「大丈夫じゃないよ!! 黒ぽんの顔面どうなってんの!?」
「おまえ人殴った事ないだろ。慣れてねぇとそんなもんだぞ」
「五月蠅いよ!!」
 右手の甲をさすりながら、ファイがすっくと立ち上がった。
 そして黒鋼を見上げ、見上げる事が気に入らなかったのかベッドに座らせ見下ろした。
「もうこの際言うけどさぁ。この十年間、本気で好きだったのはそっちだけじゃないんだよ」
「は?」
 黒鋼が目を点にした。
 予想はしていたその反応に、ファイはぎゅっと眉を寄せる。
「あの頃本当に寂しくてさ、でも黒たんすっごく優しくていつも一緒に居てくれて。最初はオレだって驚いたよ? ああ多分勘違いしてるなって思ったけどさ、でも真剣だったじゃない。本気だったでしょ? 嬉しかったんだよ。嬉しいって思っちゃったんだよ」
 ファイの言葉を聞きながら、黒鋼はもう何も言えずただファイを見上げていた。
 やけっぱちのファイは、ただ出てくる言葉を黒鋼に吐き続けた。
 蒼い目が潤んで揺れた。
「子どもの頃だったし、それがいいとか悪いとかそんな事も考えなかったよ。だって嬉しかったんだもん。離れるのは寂しかったんだもん。黒ぽんがオレの事好きな事だって、変だなって思ったんだけど嬉しい気持ちの方が勝っちゃったから止められなかったんだよ」
 一旦言葉が切れ、ファイが呼吸をし直した。
 肺に残っていた空気を吐いて、思い切り吸う。
 それは大きな声を出す為だった筈なのに、言葉を発そうとすれば喉が震え、音にならず息が漏れた。
「……だけど違ったんだよぅ。勘違いだった。オレの勘違いだった。君の勘違いだった。もしかしたらって思ったんだよ君の顔見た時。だから確かめたのそうしたらやっぱり間違いだったの」
 ファイが口元を押さえ、小さくなってしまった声が更に小さくなった。
 声は震えていて涙声になっていて、声だけでなくファイの肩も口元で握られた拳も小さく震えていた。
「今日馬鹿な事したのは、最後のあがき」
 ファイが黒鋼の胸倉を掴み、少し上へ引き上げた。
 へなちょこの細腕で黒鋼を持ち上げる事が出来る訳もなく、少し上を向かせる程度に収まるが代わりにファイが少し屈む事でごつりと額と額がぶつかった。
 涙目の蒼い瞳がぶつかりそうな程顔に近付き、鼻が触れ、ファイの呼吸が頬にあたった。
「これも」
 ファイがそっと目を閉じ、唇に柔らかいものが触れた。
 黒鋼はファイを突き飛ばす事も振り払う事もしなかった。
 短いキスが終るとファイは手を放し、為す術もなく黒鋼を見下ろした。
「……ごめんね。オレと君は全部ちぐはぐなの。だから、出て行こうと思ったの」
 言いたかった事を全て言い終えると、ファイは黒鋼の反応を待った。
 黒鋼は呆然とファイを見上げていたけれど、その目に涙がたまっているのを見付けると、無意識に手が伸びた。
 今にも落ちそうだったそれは、黒鋼の指が触れる事でぽろりと零れて床を濡らした。
 ああ、と黒鋼は溜息とも呻き声ともつかない声をあげ、上げた手をファイの肩に、肩を滑らせ手を握った。
 空いている方の手も同じ様に握り、少し引くとファイがすとんと跪いた。
 黒鋼を見下ろしていたファイは再び黒鋼を見上げ、その頬を黒鋼の両手が覆った。
 ファイは久々に触れる手が大きくゴツゴツしている事や、細く鋭くなった赤い目が記憶の通りに真っ直ぐで美しい事や、少しカサついていた唇が暖かかった事などを、体に染みこませる様に目を閉じた。
 これから怒鳴られても軽蔑されても殴られてもいいと思う。
 どちらにしろここで十年の想いは全部終るのだから。
「悪かった」
 その言葉に、ファイは心が死ぬとはどういう事かを知った気がした。
 覚悟はしていたのに想像していたよりはずっとそれは重くて痛くて、やり過ごせなくてファイは目を開いた。
 近い距離に黒鋼の顔があり、固い指が頬をずっと撫でている。
 労る様な優しさが逆に辛くて、喉が引き攣った。
「え?」
 突然腕を引かれ、ファイの体は黒鋼の腕の中へ納められた。
 手はベッドと黒鋼の膝に付き、倒れ込まない様に体重を支える。
 抱き締められていると状況を理解しても何故こうなったかが理解出来ず、黒鋼の顔を確認したかったがファイを抱き締める黒鋼の腕は力強かった。
「あ、あの。どういう」
「ちょっと黙ってろ」
「え、うん」
 黒鋼の胸に顔を埋め、ファイはもう何でもいいやと両手を黒鋼の背中に回し、べったりと体重を預けた。
 大きくて頑丈な黒鋼の体は、いくらもたれ掛かってもびくともしなかった。
「なあ」
「何?」
「おまえさ、もうずっとここに住んだらいいんじゃねえ?」
「出て行くって話を、したんだけど」
「悪い」
「謝らないでよ」
 いよいよ悲しくなって、ファイは黒鋼の肩に噛み付いた。
 いて、と黒鋼が声をあげ、背中をトントンとタップする。
 口を離すと、そんなにきつく噛んだつもりは無かったけれど歯形が残っていた。
 一生残ればいいのに、と物騒な事を思っていると黒鋼の腕がほどかれた。
 離れて行く体温の余韻に震えると、胸倉を掴まれ引き寄せられた。
 ファイの体は容易く引っ張られ、額と額がごつりとぶつかる。
「悪い。今でも好きだ」
「へ?」
 超至近距離に黒鋼の目があって、思わず殴られるかと身構えたファイは目を丸くした。
 ぱちぱちと瞬きし、ゆっくり首を傾げると傾きかけた頭を黒鋼が掴み、真っ直ぐ元に戻す。
「返事は」
 やけに不機嫌そうな声をかけられ、ファイはまた首を傾げた。
 返事と言われても「あ、そう?」くらいの言葉しか浮かばない。
 また頭が掴まれ、真っ正面に戻されるとファイは鼻が触れ合う近さにある赤い目をジッと見た。
「あのー……その、今でも好きというのは、オレが別に男でも構わないと仰っているという理解で合ってるのかな? それとも日本語には少し複雑な使い方があって、それはワビサビみたいな感じで海外の人間には理解し難い、所謂心の内側の問題を複雑に現わしているのかな」
「おまえ、この十年で馬鹿になっただろ?」
「ばっ……!?」
「昔は言葉なんざ通じなくても、わかったんだろうが」
 あ、と思った時には黒鋼の唇がファイの唇に噛み付いた。
 柔らかく触れて、舌が乾いていた唇を潤すと離れて行く。
 膝立ちだったファイがぺたんと尻餅をついた。
 耳の奥でわんわんと音が鳴り、心臓がどんちゃん騒ぎを始め、体温が上昇する。
 よくよく見ればファイを見下ろす黒鋼も同じ様な状態で、頬どころか耳まで赤い。
 その少しむすっとした不機嫌そうな顔には覚えがあった。
 あの時は何と言っていたかわからなかったが多分「結婚しよう」と言ってきた時、あの結婚式場での黒鋼も照れくささを誤魔化す為にかこうやって顰めっ面をして、それでも顔は真っ赤だった。
「ああ畜生、心底惚れて十年追っかけてきた相手だぞ。んなほいほい心変わり出来るかってんだ」
「……オレが女の子じゃなくても?」
「だ!」
 告白された筈なのに不機嫌そうな黒鋼に、ファイはじわじわ笑いが込み上げるのを感じた。
 こんなおかしい事はなかった。
 期待してウキウキ日本にやってきて、勘違いに気付いて今まで信じてきたものが全てなくなって、かと思えばそれすら勘違いだったなんてどう心の処理をしていいのかわからない。
 ただただ、嬉しいと愛おしいだけが溢れてくる。
「ついでに言っとくが、俺は黒髪黒目よか金髪碧眼のが好きだ」
 付け加えられた言葉にファイは驚きでぽかんと口を開いた。
 ありがとうとかオレは黒ぽんの黒髪が好きだよとか、言いたい事が頭の中を母国語で一気に駆け巡り、それを日本語に翻訳する機能が追いつかない。
「…………ビックリデス」
「おい片言」
 一言に要約されたファイの言葉はさして意味の無いものになってしまったが、それを聞いた黒鋼は笑っていた。


「そんで、昨日のあの子は何だったんだよ」
「あれだろ? 絶対、あの彼女だろ?? 十年前のあの」
「いやいや、従姉妹とか血縁者ってのは?」
「こいつの血縁者であんな可愛い子居る訳ねーだろ。全員巨人に決まってる」
「アホ。大道寺んとこのお嬢さん見てみろ。母方美人ばっかだぞこいつんとこ」
「うるせぇなおまえら……大体、十年経ったら人は変わるだの、散々馬鹿にしてやがったろうが」
『やっぱりそうなのか!?』
「喧しいわ」
 次の日、登校した黒鋼を待っていたのはファイが尋ねてきた時に居合わせた友人と、それを聞きつけた同級生達の尋問だった。
 それは朝から始まり休憩時間を挟んで放課後まで続いていたが、黒鋼はまあそんな感じだと言葉を濁し、会わせろという友人達を警戒する。
 もう腹は括った。
 両親にはその日の内に事の顛末を報告したが、驚くかと思いきや良かった良かったと安心する姿に腰を抜かしそうになったものだ。
 特に母親なんかは協力した甲斐があったと涙ぐむ始末。
 セーラー服とカツラの出所ははやりここだった。
 黒鋼が友人達に警戒しているのは男同士で、という所謂世間でタブーになっている事がバレる事ではなく、男女構わず他人を惹き付けるファイをあまり他人に披露したくないという点だった。
 それも数日後には隣町にある高校へ転入となるのだから、いずれは顔を合わせる機会もあるのだろうが。
「クロ」
 校門を越えた所で黒鋼は立ち止まり、その声の方を振り向いた。
 友人達がどよめき、声の主へと駆け寄ろうとしたのを黒鋼は足を引っかけ襟首を掴んで放り蹴散らした。
 そこには昨日と同じくセーラー服を着たファイが立っていた。
 ただしカラコンは外して瞳は蒼、カツラをかぶってはいるが髪は元々の色と同じく薄い金で腰までの長さがある。
「いや確かに、金髪碧眼のがいいと言ったけどよ」
 女装しろとは言っていないという言葉を飲み込んで、黒鋼はリクエストに応えた筈なのにと首を傾げるファイの頭を撫でてやった。




―――――――――――――――――――――――――――

アミダ企画も第三弾となりまして、連続でお邪魔させて頂きました!
企画発案者の紅理さん、HP管理そして締め切り前にはきっちりフォローも入れてくれるたくみさん
本当にありがとうございます!
今回は「幼なじみ」というお題だったので、ちび黒ファイで妄想させていただきました
皆さんの作品がどしどしアップされるのが楽しみです^^
ありがとうございました!
むじこ