日本国夫婦/かくしあじ




黒鋼の住む日本国には、死ぬほど桜が植わっている。
白鷺城はもちろん、歩道、街中、川の畔、春になると目につく所目につく所桜だらけだ。
普段は青々とした葉が茂っていて日陰にはちょうどいいが、如何せん虫がつきやすい。
満開の時期になればそれは美しいが、散ってしまうと一気に味気を失ってしまう。
そんな風景を疎んだ時期があった。
追い出されるように飛び出した世界の先でも出会ったのは桜のような男であった。
淡い色を自ら地に落としていく姿はあの花と、あの男に通ずるところがある。
そう思った事があった。

・ ・

「でさぁ、オレはこの人とは分かり合えないだろうなって思ってたんだよねぇ」

そんなことをのたまいながら魔術師はぐいっと酒を煽った。
今宵は中天に差し掛かる満月が非常に美しい。
酒杯に映り込む月の姿をしばらく眺め、黒鋼もそれを一気に飲み込んだ。
結界を張ると言う責務を負いながら時々知世姫から押し付けられるという仕事を終えた魔術師は、同じく魔物退治を終えて帰ってきた黒鋼とまったりくつろいでいる。
春先の風はまだ少し冷たく、風呂あがりの二人の体温を奪っていくような気がした。
ファイが日本国に来てから、彼自身に桜の喩え話を聞かせたことが二度ある。
一度目は初めて故郷へ連れてきた時、そして二度目はついさっき。
はじめはただそうかと笑うだけだったが、今は酒も入っている所為か随分楽しげな調子で黒鋼の第一印象について語りだしている。
もう何本も空になった酒瓶を縁側の隅に押しやって、ファイは新しい瓶の蓋を空けた。

「全身真っ黒だし、でっかい刀持ってるし、あんまり協力的じゃなかったし。挙句に嫌いとか言うし」
「昔の話だろうが。さっさと忘れろ」
「えー? 昔話をしだしたのはくろぽんだよぅー」

ほけほけと笑いながら足を投げ出す。
この男に関してはザルを通り越してワクなので酒に酔うなどということは万に一つもないだろうが、それにしてはやけに高揚しているようだった。
かといって、昔語りを楽しむような質でもないことは黒鋼も知っている。
何も読み取れない笑顔をにらみつつ、自分の器に酒を継ぎ足した。
揺れる水面に映る月が歪んで見えるのを、感傷的に感じる心をあいにく黒鋼は持ちあわせてはいない。

「……それにしたっててめえが昔語りとは、珍しい」
「そぉ? 語る過去がなかっただけだよ」

確かにそうだった。
彼は元来、あまり昔を話したがらない性分なのである。
間接的に知る機会があったとはいえ、この魔術師の過去を彼の口から聞いたことは一度もない。
黒鋼の何倍も生きているというファイは、覚えていることよりも忘れてしまったことのほうがきっと多いのだろう。
何年生きているのか、正確な年は誰も知らないし、自分自身もはっきりとは覚えていないのだと言っていた。
それほどの過去を覚えていられるものか。
それだけの過去を振り返ることができるのか。
黒鋼には、わからない。

「何年生きてきたか分からねえと言っていたな」
「うん、言ったねえ」
「てめえにとって死はどんな立ち位置にあるんだ?」

ひょっとしたら地雷かもしれないと思いつつ、それとなく疑問を口にする。
ファイはうーんと唸りながら転がした瓶を足で弄りながら、庭のほうをぼんやりと見やった。
貼り付けたような、とは少し違うが、考え事をしながら曖昧な笑顔を浮かべている。

「なんだろうね、生きているようなことかな」
「意味わかんねえぞ」
「うーんとね、ここまで長く生きてると、生死の概念って薄れてくるんだよねえ。人が死ぬところも数えきれないほど見てきたし」

当然生まれるところも散々見てきた。
今まで生きてきた中で出会った人の数は計り知れない。
人が生きて死ぬ循環を何度も見てきた魔導師にとっては、全てがありふれたものの一部にすぎない。
その中で、あの旅は何よりも強烈なものになった。

「でも、生きててよかったって思えることもあったんだよぅ」

たくさんね、と笑う。
彼はそれ以上語らずに酒を楽しみ始めてしまったが、黒鋼にとってはそれだけで十分であった。
その言葉が聞きたくて、あの時手を伸ばしたのだ。
その笑顔が見たくて、あの時腕を落としたのだ。
桜の散り際を惜しむような得も言われぬ気持ちになったのはあれが初めてで最後だろう。
今は美しく咲き続けている。
十分だ、そう思う。
黒鋼はそうか、とだけ言うと、自分も無言で酒を煽った。

たまには何をするでもなく、ただ飲み明かす夜も悪くない。
それがこの魔導師の隣ならばなおのこと、心地良いと感じた。
我ながら丸くなったものだと思いながら視線を向けると、こちらを向いていたらしいファイと目があった。
ふにゃ、といつもの調子で気の抜けた笑顔をするものだから、こちらもついため息が出る。
そんな日々も悪くない。
むしろ、終わりを惜しむほど幸せに感じたことだろう。



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相変わらずの短文でもうしわけなすび……!!!
こんなもんでよろしいでしょうか。
幸せな黒ファイが愛おしくてたまらぬ今日このごろでありまする。

かくしあじ